ギュツラフ及び初期の翻訳とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ギュツラフ及び初期の翻訳の意味・解説 

ギュツラフ及び初期の翻訳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:45 UTC 版)

日本語訳聖書」の記事における「ギュツラフ及び初期の翻訳」の解説

19世紀になると、中国日本開国キリスト教解禁睨んでプロテスタント宣教師たち日本国外聖書漢訳和訳事業進めた。たとえば、カール・ギュツラフKarl Friedrich Augustus Gützlaff, LMS)は、マカオ漢訳神天聖書中国語版)』などを参照しながら日本人漂流民音吉らの協力得てヨハネによる福音書』を翻訳し、『約翰福音之伝』(1837年約翰ヨハネ音訳)として、アメリカ聖書協会経済的支援によりシンガポールアメリカン・ボード出版局夏書院より出版した。このギュツラフ訳が実質的に最古の日本語聖書位置づけられることもしばしばである。ちなみに音吉たちは尾張国現在の愛知県美浜町)の出身であったため、この聖書にはアスコ(あそこ)、アヨブ(あるく)、アーヌイテ(見あげて)などの尾張方言見られる。 この翻訳現存する刊本校合から、少なくとも3刷を数えたものと推測されている。この訳業は、時期熱意評価されているものの、訳文そのもの評価高くない。それでも、基督教研究』誌で1938年復刻されたのをはじめ、長崎書店1941年)、新教出版社1976年)、雄松堂書店1977年)などによって何度も復刻されている。また、ギュツラフは同じ年にヨハネ書簡翻訳(『約翰上中下書』)も公刊しているが、『約翰福音之伝』が開国まもない頃の日本持ち込まれたのに対し、『約翰上中下書』は持ち込まれることがなかった。なお、1911年英国外国聖書協会図書館目録には、ギュツラフ新約全体旧約一部翻訳完成させていたという記述がある。従来、この記述裏付けるような痕跡は見つかっていなかったが、2012年吉田新ボドリアン図書館付属日本研究図書館調査した際に、ギュツラフ訳した可能性がある『ローマの信徒への手紙』の逸文発見した。これはイギリス国教会司祭でもあった東洋学者ソロモン・マラン(英語版の手稿に転記されていたものである。 また、サミュエル・ウィリアムズSamuel Wells Williams, ABCFM)も、マカオで『馬太(マタイ福音伝』を1830年代末に訳している。この稿本は、後に託されサミュエル・ロビンス・ブラウン自宅火災などによって失われたが、肥後国出身の在マカオ漂流民、原田庄蔵の手による写本1850年)が1938年長崎発見されており、それによって内容伝わっている。また、この写本にはウィリアムズによるヨハネ福音書の試訳も5章9節まで収められている。これは神を「テンノツカサ」(天の司)と訳すなどの違いはあるものの、その表題(『約翰福音伝』。ギュツラフ訳とは「之」の位置異なる)も含めてギュツラフ訳文酷似している(#ヨハネ福音書の比較参照)。なお、ウィリアムズ創世記訳したらしいが、その草稿伝わっていない。 禁教下の琉球王国強引に布教始めたバーナード・ジャン・ベッテルハイム (Bernard J.Bettelheim) は、1847年ルカ福音書から始めて1851年までに四福音書続けて使徒言行録使徒行伝)、ローマの信徒への手紙ローマ書ロマ書)を琉球語訳した。しかし、琉球王国から退去余儀なくされ、1855年香港上記琉球語訳を『路加ロカ)伝福音書』、『約翰福音書』、『聖差言行伝』(使徒言行録)、『保羅羅馬人書』(ポウロ ロマびとによするのしょ)として出版した。この時点でのベッテルハイム琉球語訳が日本本土布教使える考えていたのだが、本土日本人には理解難しいことを悟ると方向転換し漢和対訳新約聖書翻訳企画した。そして、1858年イギリス聖書協会より、漢和対訳路加ルカ)福音書』を出版した。この著作は、明治初期日本伝道活用された。ベッテルハイムは、この後残り福音書出版するつもりであったが、既に別途聖書翻訳事業とりかかっていたジェームス・カーティス・ヘボン否定的な意見述べたこともあって出版遅れたベッテルハイム日本語訳には琉球語混じっており、日本人にも理解が困難とされたのである出版されないままだった草稿のうち、マタイ伝マルコ伝イギリス聖書協会残っていることが知られていた。残るヨハネ伝草稿行方不明のままだが、前出マランの手稿(1853年)に転記されている。ベッテルハイムその後シカゴ知り合った日本人協力受けて翻訳改訳進めており、死後の出版になるが、1873年に『約翰福音書』、『路加ロカ)伝福音書』、翌年には『使徒行伝』がオーストリアで出版されることとなる。 前出マランの手稿には、マラン自身訳した思われるヤコブの手紙全訳含まれる。これはヤコブの手紙通説的な初訳時期大幅に遡るだけでなく、ギュツラフベッテルハイム違い日本上陸をせず、日本人協力者の手すらも借りずヨーロッパ人独力でなしとげた点でも特異である。なお、この底本欽定訳聖書であった考えられている。 日本1854年嘉永7年)に日米和親条約1858年安政6年)に安政五カ国条約を結び、開国至った幕末の日本はまだ禁教下ではあったものの、宣教師たち続々入国し日本伝道がいずれ解禁される時のための準備進められた。この伝準備中の重課題は、聖書翻訳であった当初日本滞在した宣教師たちは、漢訳キリスト教書籍持ち込んで密かに頒布し布教努めたヘボン後述)の見立てでは「すべての教養ある日本人は、(中略)我々がラテン語を読むのと全く同様に、困難もなくシナ語聖書を読むことができる」とされたからである。他方で、ヘボン該当する日本人成人全体50分の1以下見積もっており、漢文読めない大多数一般人布教するには、平易な日本語訳聖書を必要とした。 日本国内最初に翻訳聖書出版したのは、バプテスト派宣教師1860年万延元年)に入国したジョナサン・ゴーブルJonathan Goble, ABF)である。ゴーブルは、極貧のうちにあって靴直し糊口をしのぎながら、ギリシャ語本文からの口語和訳挑んだ原典翻訳称してはいるが、彼は所属していた団体欽定訳聖書改訳運動影響されており、特にコナント (T.J.Connant) が刊行した詳注付き新約聖書欽定訳改訳の試訳版)への依存度が大きかった。このコナント版の刊行1864年のことで、彼の翻訳は同じ年に始まっている。彼が訳したマタイ福音書は、1871年明治4年)に『摩太(マタイ福音書』として東京出版された。版木屋は中身聖書であることを知らず引き受けたという。ゴーブル方針は、新約聖書用いられているギリシャ語コイネー)が日常語であることに鑑み俗語交えた平易な日常語で訳すというものであった。その訳業は、バプテスト派漢訳聖書聖經遺詔全書』(1853年)を書き下すことから始まったとされるが、平仮名書きのその文体には漢訳聖書影響希薄である(#マタイ福音書の比較参照)。 ゴーブルは他の宣教師折り合い悪く単独での日本語訳アメリカ聖書協会請求して拒否される一幕もあった。これはアメリカ聖書協会が、特定の教派偏らない翻訳方針を示していたヘボン反対意見受け入れたためで、ゴーブル上述のように独立独歩バプテスト派解釈に基づく翻訳行った。彼は、四福音書全体使徒言行録訳したとされるが、その稿本残っていない。彼の翻訳俗語交じりであることから、その訳文はあまり評価されていない。なお、ゴーブル聖書翻訳作業は、1873年明治6年)に日本での活動開始したバプテスト派宣教師ネイサン・ブラウン引き継がれた。

※この「ギュツラフ及び初期の翻訳」の解説は、「日本語訳聖書」の解説の一部です。
「ギュツラフ及び初期の翻訳」を含む「日本語訳聖書」の記事については、「日本語訳聖書」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ギュツラフ及び初期の翻訳」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ギュツラフ及び初期の翻訳」の関連用語

ギュツラフ及び初期の翻訳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ギュツラフ及び初期の翻訳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本語訳聖書 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS