ギュツラフ及び初期の翻訳
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「日本語訳聖書」の記事における「ギュツラフ及び初期の翻訳」の解説
19世紀になると、中国や日本の開国とキリスト教解禁を睨んで、プロテスタント宣教師たちが日本国外で聖書の漢訳・和訳事業を進めた。たとえば、カール・ギュツラフ(Karl Friedrich Augustus Gützlaff, LMS)は、マカオで漢訳『神天聖書(中国語版)』などを参照しながら日本人漂流民音吉らの協力を得て『ヨハネによる福音書』を翻訳し、『約翰福音之伝』(1837年、約翰はヨハネの音訳)として、アメリカ聖書協会の経済的支援によりシンガポールのアメリカン・ボード出版局堅夏書院より出版した。このギュツラフ訳が実質的に最古の日本語訳聖書と位置づけられることもしばしばである。ちなみに、音吉たちは尾張国(現在の愛知県美浜町)の出身であったため、この聖書にはアスコ(あそこ)、アヨブ(あるく)、アーヌイテ(見あげて)などの尾張方言が見られる。 この翻訳は現存する刊本の校合から、少なくとも3刷を数えたものと推測されている。この訳業は、時期と熱意は評価されているものの、訳文そのものの評価は高くない。それでも、『基督教研究』誌で1938年に復刻されたのをはじめ、長崎書店(1941年)、新教出版社(1976年)、雄松堂書店(1977年)などによって何度も復刻されている。また、ギュツラフは同じ年にヨハネ書簡の翻訳(『約翰上中下書』)も公刊しているが、『約翰福音之伝』が開国まもない頃の日本に持ち込まれたのに対し、『約翰上中下書』は持ち込まれることがなかった。なお、1911年の英国外国聖書協会図書館の目録には、ギュツラフが新約全体と旧約の一部の翻訳を完成させていたという記述がある。従来、この記述を裏付けるような痕跡は見つかっていなかったが、2012年に吉田新がボドリアン図書館付属日本研究図書館で調査した際に、ギュツラフが訳した可能性がある『ローマの信徒への手紙』の逸文を発見した。これはイギリス国教会の司祭でもあった東洋学者ソロモン・マラン(英語版)の手稿に転記されていたものである。 また、サミュエル・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, ABCFM)も、マカオで『馬太(マタイ)福音伝』を1830年代末に訳している。この稿本は、後に託されたサミュエル・ロビンス・ブラウンの自宅火災などによって失われたが、肥後国出身の在マカオ漂流民、原田庄蔵の手による写本(1850年)が1938年に長崎で発見されており、それによって内容が伝わっている。また、この写本にはウィリアムズによるヨハネ福音書の試訳も5章9節まで収められている。これは神を「テンノツカサ」(天の司)と訳すなどの違いはあるものの、その表題(『約翰之福音伝』。ギュツラフ訳とは「之」の位置が異なる)も含めて、ギュツラフの訳文と酷似している(#ヨハネ福音書の比較も参照)。なお、ウィリアムズは創世記も訳したらしいが、その草稿は伝わっていない。 禁教下の琉球王国で強引に布教を始めたバーナード・ジャン・ベッテルハイム (Bernard J.Bettelheim) は、1847年にルカ福音書から始めて、1851年までに四福音書、続けて使徒言行録(使徒行伝)、ローマの信徒への手紙(ローマ書、ロマ書)を琉球語に訳した。しかし、琉球王国から退去を余儀なくされ、1855年に香港で上記の琉球語訳を『路加(ロカ)伝福音書』、『約翰伝福音書』、『聖差言行伝』(使徒言行録)、『保羅寄羅馬人書』(ポウロ ロマびとによするのしょ)として出版した。この時点でのベッテルハイムは琉球語訳が日本本土の布教に使えると考えていたのだが、本土の日本人には理解が難しいことを悟ると方向転換し、漢和対訳の新約聖書翻訳を企画した。そして、1858年にイギリス聖書協会より、漢和対訳『路加(ルカ)伝福音書』を出版した。この著作は、明治初期の日本伝道で活用された。ベッテルハイムは、この後も残りの福音書を出版するつもりであったが、既に別途に聖書翻訳事業にとりかかっていたジェームス・カーティス・ヘボンが否定的な意見を述べたこともあって出版が遅れた。ベッテルハイムの日本語訳には琉球語が混じっており、日本人にも理解が困難とされたのである。出版されないままだった草稿のうち、マタイ伝、マルコ伝はイギリス聖書協会に残っていることが知られていた。残るヨハネ伝の草稿は行方不明のままだが、前出のマランの手稿(1853年)に転記されている。ベッテルハイムはその後、シカゴで知り合った日本人の協力を受けて翻訳・改訳を進めており、死後の出版になるが、1873年に『約翰伝福音書』、『路加(ロカ)伝福音書』、翌年には『使徒行伝』がオーストリアで出版されることとなる。 前出のマランの手稿には、マラン自身が訳したと思われるヤコブの手紙の全訳も含まれる。これはヤコブの手紙の通説的な初訳時期を大幅に遡るだけでなく、ギュツラフやベッテルハイムと違い、日本上陸をせず、日本人協力者の手すらも借りずにヨーロッパ人が独力でなしとげた点でも特異である。なお、この底本は欽定訳聖書であったと考えられている。 日本は1854年(嘉永7年)に日米和親条約、1858年(安政6年)に安政五カ国条約を結び、開国に至った。幕末の日本はまだ禁教下ではあったものの、宣教師たちが続々と入国し、日本伝道がいずれ解禁される時のための準備が進められた。この伝道準備の中の重要課題は、聖書翻訳であった。当初、日本に滞在した宣教師たちは、漢訳のキリスト教書籍を持ち込んで密かに頒布し、布教に努めた。ヘボン(後述)の見立てでは「すべての教養ある日本人は、(中略)我々がラテン語を読むのと全く同様に、困難もなくシナ語の聖書を読むことができる」とされたからである。他方で、ヘボンは該当する日本人を成人全体の50分の1以下と見積もっており、漢文の読めない大多数の一般人に布教するには、平易な日本語訳聖書を必要とした。 日本国内で最初に翻訳聖書を出版したのは、バプテスト派の宣教師で1860年(万延元年)に入国したジョナサン・ゴーブル(Jonathan Goble, ABF)である。ゴーブルは、極貧のうちにあって靴直しで糊口をしのぎながら、ギリシャ語本文からの口語和訳に挑んだ。原典翻訳を称してはいるが、彼は所属していた団体の欽定訳聖書改訳運動に影響されており、特にコナント (T.J.Connant) が刊行した詳注付き新約聖書(欽定訳改訳の試訳版)への依存度が大きかった。このコナント版の刊行は1864年のことで、彼の翻訳は同じ年に始まっている。彼が訳したマタイ福音書は、1871年(明治4年)に『摩太(マタイ)福音書』として東京で出版された。版木屋は中身が聖書であることを知らずに引き受けたという。ゴーブルの方針は、新約聖書で用いられているギリシャ語(コイネー)が日常語であることに鑑み、俗語も交えた平易な日常語で訳すというものであった。その訳業は、バプテスト派の漢訳聖書『聖經新遺詔全書』(1853年)を書き下すことから始まったとされるが、平仮名書きのその文体には漢訳聖書の影響は希薄である(#マタイ福音書の比較参照)。 ゴーブルは他の宣教師と折り合いが悪く、単独での日本語訳権をアメリカ聖書協会に請求して拒否される一幕もあった。これはアメリカ聖書協会が、特定の教派に偏らない翻訳方針を示していたヘボンの反対意見を受け入れたためで、ゴーブルは上述のように独立独歩でバプテスト派の解釈に基づく翻訳を行った。彼は、四福音書全体と使徒言行録も訳したとされるが、その稿本は残っていない。彼の翻訳は俗語交じりであることから、その訳文はあまり評価されていない。なお、ゴーブルの聖書翻訳作業は、1873年(明治6年)に日本での活動を開始したバプテスト派宣教師、ネイサン・ブラウンに引き継がれた。
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