明治時代から太平洋戦争前までとは? わかりやすく解説

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明治時代から太平洋戦争前まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:29 UTC 版)

日本の獣肉食の歴史」の記事における「明治時代から太平洋戦争前まで」の解説

明治時代になると、牛肉食べることが文明開化象徴考えられ牛肉使ったすき焼き流行した当時牛鍋屋仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(1871)の舞台ともなっている。 明治新政府発足当初から肉食奨励キャンペーン大々的展開した明治2年(1869)に築地半官半民食品会社牛馬会社」を設立し畜肉販売開始した。翌、明治3年(1870)には福沢諭吉執筆したパンフレット肉食之説』を刊行配布している。 斎藤月岑日記には「近頃はやりもの」として牛肉豚肉などが挙げられている。食肉業者増えたことにより、1871年明治4年)には「屠場人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている。同年には天長節翌日外国人招いた晩餐会で、西洋料理出している。ただし明治天皇初め牛肉食したのは1872年明治5年)である。同年廃仏毀釈により僧侶破戒させるため太政官布告で「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。明治初頭にはもっぱら和食食材として用いられ関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼称して食べられた。生に酢味噌付けて食べることも行われた牛肉の質は兵庫県産最上とされ、ついで会津栗原津軽出雲信州甲州などが優秀とされた。ただし獣肉食を穢れとする考え強く、これを迷信として打破するために近藤芳樹屠畜考』、加藤祐一文明開化』といった著作や、敦賀県からは牛肉穢れとする考えを「却って開化妨碍をなす」とする通達出されている。1906年明治39年)には炭疽病を防ぐために屠場法制定された。 明治初年には抵抗強かった血抜き技術が不完全で煮炊きする臭かったため、庶民単純に敬遠するということあったらしい。『武士の娘』を書いた杉本鉞子牛肉を庭で煮炊きをしたところ、祖母仏壇に紙で目張りをして食事にも姿を見せなかったという。一方正当な理由のある反対としては1869年明治2年)、豊後岡藩清原来助が公議所農耕保護のために牛肉売買禁止訴えている。天皇食してしばらく後の1872年明治5年2月18日御岳行者10名が皇居乱入しそのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件発生し、後に「外国人来て以来日本人肉食し穢れて神の居場所無くなった為、外国人追い払うためにやったのだ」との動機供述されている。1873年明治6年)の『東京日日新聞』には「豚肉健康に良くないので食べないよう」との投書掲載された。1877年明治10年)の『朝野新聞』には「洋食洋医宮中より斥けよ」との記事掲載された。1880年明治13年)の『郵便報知新聞』は、牛肉食で耕牛減少したため、食糧生産大幅に減少した、と報じている。 1884年明治17年)、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気原因が「窒素炭素比例不良」(タンパク質の不足)にあると考え脚気対策として海軍兵食西洋式改めることを上申した。しかし、兵員多くパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍で1885年明治18年)から麦飯支給されることとなった日本の脚気史#海軍の兵食改革)。また、陸軍においても日常食される兵食野戦糧食肉食洋食多く取り入れられ日清戦争当時の「戦時陸軍給与規則」では1日基準の肉・150gであった日本の脚気史#「勅令」による戦時兵食の指示)。日露戦争当時白米飯(精白米6合)から麦飯切り替わった1910年明治43年制定陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(「明治43年陸普3134号」)には、肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ(ビーフ・ポーク)、ビーフステーキ、メンチビーフ、フーカデン・ドライド、ハッシビーフ、ロール・キャベツカレー・ライス、スチウ、ミートオムレツ、燻製豚肉牛肉サンドウイッチ、肉スープ、コンド・ビーフなどが掲載されている。また、大正末にはパン食組織的に取り入れられ(「大正9年陸普第2529号」)、その副食最適なものとしてカレー・シチウ(シチュー)・貝と野菜汁(クラムチャウダー)が挙げられ、またシロップ・ジャム・バター・クリームも嘗物として導入されている(軍隊調理法#メニュー『軍隊調理法』))。 政府役人対し外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食奨励した例え海軍上野精養軒食事をすることを奨励し月末精養軒への支払い少な士官に対して注意されることもあったという。また、遅くとも1877年明治10年)までには宮中の正式料理西洋料理となったこの頃には東京牛肉屋は558軒にまでなっている。1886年明治19年)の東京横浜毎日新聞には、高木兼寛洋食を嫌う日本女性相手毎月3回洋食会を開くことを決めた旨が掲載されている。 山間部では牛肉食は広まらなかったが、元々獣肉食に対す嫌悪感少なく1873年明治6年)に刊行され飛騨地方地誌『斐太後風土記』にはシカイノシシカモシカクマなどが食べられていた旨書かれている。ただしその総量鳥類合わせて魚類6分の1程度であった明治中期になると、家庭でも西洋料理作られるようになった1895年明治28年)の『時事新報』には「この牛の煮たのは変なにおいがするね」「ネギ臭くてたまりませんから、香水をふりっけましたっけ」との新婚家庭笑い話掲載されている。1903年明治36年)の『婦女雑誌』には米津風月堂主人による「牛肉蒲鉾」などの料理掲載されている。また1904年明治37年)の『家庭雑誌』にはアメリカで料理学んだこともある大石誠之助が「和洋折衷料理」として濃い目の味噌汁カレー粉牛肉入れたカレー味噌汁」などを紹介している。また、ジャーナリスト村井弦斎1903年明治36年)から報知新聞料理小説食道樂』を連載し、そこで西洋料理紹介もして、後に書籍となってベストセラーになった。 また1904年明治37年)から始まった日露戦争のため、戦場食糧として牛肉大和煮缶詰乾燥牛肉考案され軍隊牛肉の味を覚えた庶民増えた日本内地では戦争のため牛肉不足し豚肉脚光を浴びることになり、1883年明治16年)には年間消費量1人4グラムであったところ、1926年大正15年)には500グラム以上にまでなった。1921年大正10年)には富岡商会冷蔵庫設置して年間通して鎌倉ハム製造始めている。1923年大正12年)の関東大震災後にはコンビーフ輸入急増し輸入品としては格安だったために急速に普及した大正期には豚カツ登場し大正期三大洋食がカレーとんかつコロッケ(またはオムレツ)とまで言われるようになった。ただしこれはあくまで揚げ物ではなくカツレツであり、今の形に近いとんかつ昭和入った1931年昭和6年の上野の「ぽんた」あるいは1932年昭和7年の上野の「楽天」が最初期ものとする説もある。とんかつは主に豚の質がよく牛の質の悪い関東広まった日本人動物性タンパク源は依然として魚肉中心であったが、獣肉食に対す禁忌感情はほぼ無くなった

※この「明治時代から太平洋戦争前まで」の解説は、「日本の獣肉食の歴史」の解説の一部です。
「明治時代から太平洋戦争前まで」を含む「日本の獣肉食の歴史」の記事については、「日本の獣肉食の歴史」の概要を参照ください。

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