明治時代から太平洋戦争前まで
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「日本の獣肉食の歴史」の記事における「明治時代から太平洋戦争前まで」の解説
明治時代になると、牛肉を食べることが文明開化の象徴と考えられ、牛肉を使ったすき焼きが流行した。 当時の牛鍋屋は仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(1871)の舞台ともなっている。 明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開した。明治2年(1869)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始した。翌、明治3年(1870)には福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』を刊行、配布している。 斎藤月岑日記には「近頃のはやりもの」として牛肉、豚肉などが挙げられている。食肉業者が増えたことにより、1871年(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている。同年には天長節翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している。ただし明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)である。同年、廃仏毀釈により僧侶を破戒させるため太政官布告で「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。明治初頭にはもっぱら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼と称して食べられた。生に酢味噌を付けて食べることも行われた。牛肉の質は兵庫県産が最上とされ、ついで会津、栗原、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。ただし獣肉食を穢れとする考えは強く、これを迷信として打破するために近藤芳樹『屠畜考』、加藤祐一『文明開化』といった著作や、敦賀県からは牛肉を穢れとする考えを「却って開化の妨碍をなす」とする通達が出されている。1906年(明治39年)には炭疽病を防ぐために屠場法が制定された。 明治初年には抵抗も強かった。血抜きの技術が不完全で煮炊きすると臭かったため、庶民が単純に敬遠するということもあったらしい。『武士の娘』を書いた杉本鉞子は牛肉を庭で煮炊きをしたところ、祖母は仏壇に紙で目張りをして食事にも姿を見せなかったという。一方、正当な理由のある反対としては1869年(明治2年)、豊後岡藩の清原来助が公議所に農耕牛保護のために牛肉の売買禁止を訴えている。天皇が食してしばらく後の1872年(明治5年)2月18日、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。1873年(明治6年)の『東京日日新聞』には「豚肉は健康に良くないので食べないよう」との投書が掲載された。1877年(明治10年)の『朝野新聞』には「洋食洋医を宮中より斥けよ」との記事が掲載された。1880年(明治13年)の『郵便報知新聞』は、牛肉食で耕牛が減少したため、食糧生産が大幅に減少した、と報じている。 1884年(明治17年)、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気の原因が「窒素と炭素の比例不良」(タンパク質の不足)にあると考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申した。しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍では1885年(明治18年)から麦飯も支給されることとなった(日本の脚気史#海軍の兵食改革)。また、陸軍においても日常で食される兵食や野戦糧食に肉食・洋食が多く取り入れられ、日清戦争当時の「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった(日本の脚気史#「勅令」による戦時兵食の指示)。日露戦争当時は白米飯(精白米6合)から麦飯に切り替わった。 1910年(明治43年)制定の陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(「明治43年陸普3134号」)には、肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ(ビーフ・ポーク)、ビーフステーキ、メンチビーフ、フーカデン・ドライド、ハッシビーフ、ロール・キャベツ、カレー・ライス、スチウ、ミートオムレツ、燻製豚肉、牛肉のサンドウイッチ、肉スープ、コンド・ビーフなどが掲載されている。また、大正末にはパン食も組織的に取り入れられ(「大正9年陸普第2529号」)、その副食に最適なものとしてカレー・シチウ(シチュー)・貝と野菜汁(クラムチャウダー)が挙げられ、またシロップ・ジャム・バター・クリームも嘗物として導入されている(軍隊調理法#メニュー(『軍隊調理法』))。 政府は役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励した。例えば海軍は上野精養軒で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることもあったという。また、遅くとも1877年(明治10年)までには宮中の正式料理は西洋料理となった。この頃には東京の牛肉屋は558軒にまでなっている。1886年(明治19年)の東京横浜毎日新聞には、高木兼寛が洋食を嫌う日本女性相手に毎月3回の洋食会を開くことを決めた旨が掲載されている。 山間部では牛肉食は広まらなかったが、元々獣肉食に対する嫌悪感は少なく、1873年(明治6年)に刊行された飛騨地方の地誌『斐太後風土記』にはシカ、イノシシ、カモシカ、クマなどが食べられていた旨書かれている。ただしその総量は鳥類を合わせても魚類の6分の1程度であった。 明治中期になると、家庭でも西洋料理が作られるようになった。1895年(明治28年)の『時事新報』には「この牛の煮たのは変なにおいがするね」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりっけましたっけ」との新婚家庭の笑い話が掲載されている。1903年(明治36年)の『婦女雑誌』には米津風月堂主人による「牛肉の蒲鉾」などの料理が掲載されている。また1904年(明治37年)の『家庭雑誌』にはアメリカで料理を学んだこともある大石誠之助が「和洋折衷料理」として濃い目の味噌汁にカレー粉と牛肉を入れた「カレーの味噌汁」などを紹介している。また、ジャーナリストの村井弦斎は1903年(明治36年)から報知新聞に料理小説『食道樂』を連載し、そこで西洋料理の紹介もして、後に書籍となって大ベストセラーになった。 また1904年(明治37年)から始まった日露戦争のため、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増えた。日本内地では戦争のため牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、1883年(明治16年)には年間消費量1人4グラムであったところ、1926年(大正15年)には500グラム以上にまでなった。1921年(大正10年)には富岡商会が冷蔵庫を設置して年間を通しての鎌倉ハムの製造を始めている。1923年(大正12年)の関東大震災後にはコンビーフの輸入が急増し、輸入品としては格安だったために急速に普及した。大正期には豚カツが登場し、大正期の三大洋食がカレー・とんかつ・コロッケ(またはオムレツ)とまで言われるようになった。ただしこれはあくまで揚げ物ではなくカツレツであり、今の形に近いとんかつは昭和に入った1931年(昭和6年)の上野の「ぽんた」あるいは1932年(昭和7年)の上野の「楽天」が最初期のものとする説もある。とんかつは主に豚の質がよく牛の質の悪い関東で広まった。日本人の動物性タンパク源は依然として魚肉が中心であったが、獣肉食に対する禁忌の感情はほぼ無くなった。
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