「勅令」による戦時兵食の指示
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「日本の脚気史」の記事における「「勅令」による戦時兵食の指示」の解説
海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した(1894年(明治27年)7月31日)。ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官を務める石黒忠悳(陸軍省医務局長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった。 戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、しばしば兵站が滞った。特に緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口にする状況であった。黄海海戦後、1894年(明治27年)10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られている中、事態を憂慮した土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年(明治28年)2月15日)。しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運すこぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に至らさりしは、最も遺憾とする所なり」と、結局のところ麦飯は給与されなかった。その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したとされる(もっとも上記の通り勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限が与えられた)。 下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温という脚気が発生しやすい条件の下、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した。しかも、1895年(明治28年)9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しかし、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした。そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し(1896年(明治29年)1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。
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