「労働組合へ帰れ」
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1920年5月2日、友愛会ほか15組の労働組合は新人会などの思想団体も加えて上野公園において第1回メーデーを開催した。このメーデー開催後、メーデー参加団体は協議会を開き、今後の運動について継続的な連絡機関を設けることとして「労働組合同盟会」を創設した。この同盟会に対して友愛会は大きな影響力を持ち、労働運動の展開にさらに大きな役割を担うことになったが、また一方で隆盛しつつあった社会主義やアナーキズムによって友愛会内部の統制は難しい状況であり、会の統制を諮るために一応麻生を「日本社会主義同盟」との連絡役にする程度で留めていた。6月に入ると、棚橋は富士紡績押上工場の争議を指導することになったが、この争議は失敗という結果であった。8月、関東出張所の管轄であった各支部は自主的に労働運動を展開できるようになったとして、各支部の自主性を広範囲に認めて関東出張所を解消して、「大日本労働総同盟友愛会 東京連合会」へと発展させた。この東京連合会において棚橋は主事となり、9月には連合会書記に松本中学校時代から棚橋と親交があった上条愛一を招いた。10月に開催された友愛会8周年大会において友愛会は「日本労働総同盟友愛会」と改称すると共に、出張所制度を廃し連合会とすること、理事制を廃し中央委員制とすること、各支部を産業別、職業別に再編成すること、支部に職業紹介所を設けること、毎年メーデーを行うことが議決された。この議決と共に役員選挙が行われ、棚橋は関東選出の中央委員に就任した。更に麻生を中心として産業別の支部結成に向けて動いていたが、これに棚橋も協力して10月20日全日本鉱夫総連合会を結成し、棚橋は相談役として名を連ねた。その後、三越争議の指導や足立製作所事件の後処理などの活動を展開し、棚橋は東京連合会の要として活躍をしていった。 1921年1月、棚橋は友愛会の機関誌『労働』新年号に「労働組合へ帰れ」という論文を発表した。 「労働組合をつくってその力で労働者の地位を改善しようなどということはまだるい。われわれは手取り早く社会主義者となって直接行動をした方が早い。」 これはこのごろ労働者自身の口からよく聞く言葉である。けれどもそれは間違っている。直接行動とはいったいどういうことを意味するのか。直接行動とは、警官と小ぜり合いをして、ひと晩警察に止められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩くことではあるまい。こんな直接行動では社会の大革命はおろか、資本家の自動車一つ転覆することもできないだろう。こんな貧弱な直接行動を手頼りにして、労働者に取って大切な大切な労働組合-労働者の団結-を捨て去ろうとするのは狂気の沙汰ではないか。 直接行動の最上の手本は、波蘭の対露戦争を援助しようとした英国政府に対し、英国労働階級が行動委員会を作り、もし英国政府にして波蘭を援助するならば、全英国の労働者は一令のもとに総同盟罷業をすると言って威嚇した態度である。英国政府はこの威嚇に震え上がって波蘭援助を思い止まった。 日本の労働者よ。直接行動とはこういうことをいうのだ。直接行動という言葉を玩具のごとくに玩弄して、直接行動の飯事をやって嬉しがっている連中は、少し眼界を高く大きくする必要があろう。 なるほど飯事や玩具の直接行動をやるには、別段強い労働者の団結や労働組合は要らぬだろう。そんな事なら単独でもできる。しかしこんな玩具や飯事で、われわれ労働者の地位の改善ができると思ったら大間違いだ。 真実に労働者の地位を向上させることのできる直接行動は、労働者の大々的団結を必要とする。強大勇猛な労働組合が必要だ。諸君!急がば廻れだ。労働者が最後の決定的勝利を占めようとするには、まずそのまだるっこうい運動すなわち労働組合運動をすることが肝心だ。警察官と格闘する一人の勇士よりも、穏やかな百人の人が団結した一つの労働組合がどれ丈け資本家にとって、権力者にとって恐ろしいか分らないのだ。「労働組合を作って其力で労働者の地位を改善しようなどということはまだるっこい。われわれは手取り早く社会主義者となって直接行動をしたほうが早い。」と労働者がいっているのを聞いて、警察のお役人は薄気味悪い笑顔をしているではないか。資本家は耳に口を寄せて「占め占め」といっているではないか。労働者よ。考え直せ。だまされるなよ。 労働組合へ帰れ。それが労働者の王国である。 — 前掲棚橋書、p.207-208 棚橋は「多忙で静思する時間もないので、日ごろ頭を悩ましている最近の労働運動の動向についての感想を、東京連合会の机で頭に浮かぶままに書き流し、ほとんど読み返しもせず本部に送った」が、この論文は一部急進的労働組合から強い批判を浴びることになった。4月、3月に起こった足尾銅山争議を解決に麻生と共に導いたが、サンジカリスト・社会主義者・急進的労働者はこれを「麻生らが直接行動をもって最後まで資本家と抗争することを恐れ中途資本家に争議を売りつけたもの」と批判して「知識階級指導者の屈辱的妥協精神」にその罪が帰するとした。その後、5月に行われた第2回メーデーにおいてこの両者の相違は明確化し、7月に開催された東京連合会大会において棚橋にもその批判が集中することになった。この大会において棚橋は大会議長を務めたが、サンジカリスト・社会主義者・急進的労働者などからの「知識分子排撃」に会って議事進行を行えなくなり、議長辞職を余儀なくされた。更に棚橋はこうした東京連合会の状況を受けて東京連合主事についても辞職することになった。この主事辞職については友愛会幹部総会において慰留され顧問就任の提案もあったが、棚橋自身に思うところがあって受諾せず、最終的に主事辞職に決定した。これは棚橋が「社会主義や共産主義・無政府主義と労働組合運動の関係についてもっと研究して確乎たる信念をもちたいと考え」て、ヨーロッパやソ連への外遊を企図していたためで、辞職後に妻・孝子を連れて大分県国東町に移住して早速外遊に向けて準備を進めることになった。
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