「勅書」返納問題とは? わかりやすく解説

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「勅書」返納問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「「勅書」返納問題」の解説

安政5年8月8日1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印不服とする孝明天皇から直接勅書下賜されたと称した戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題巡って藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜擁立し一橋派)、大老井伊直弼対立していた。直弼は、一橋派中心人物は斉昭であり、密勅降下にも彼が関与していたとの疑い強めた。やがて直弼によって一橋派尊攘派への大弾圧開始され安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士厳し処分行った先に朝廷から水戸藩下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り天狗党会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年1860年になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して勅書」の返納同意したが、激派はこれに反発して実力行使企て高橋らは水戸街道長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問実施し江戸への「勅書搬入実力阻止しようとした(長岡屯集)。 この激派の動き対し、正志斎は2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋長岡宿に屯していた集団脱藩し江戸へ逃れ水戸城下から逃れて来た激派の一団薩摩浪士有村兼武・兼清兄弟らと合流し3月3日江戸城桜田門外で直弼襲撃し殺害した桜田門外の変)。8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件坂下門外の変などを起こす至った

※この「「勅書」返納問題」の解説は、「天狗党の乱」の解説の一部です。
「「勅書」返納問題」を含む「天狗党の乱」の記事については、「天狗党の乱」の概要を参照ください。

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