「勅書」返納問題
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安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。 先に朝廷から水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋らは水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。 この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすに至った。
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