「加賀騒動」
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その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。延享5年6月26日および7月4日、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。藩内で捜査した結果、これは奥女中浅尾の犯行であり、さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった真如院であることが判明した。これを受けて真如院の居室を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。寛延元年(1748年)9月12日、真如院の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。寛延2年(1749年)には禁固中の浅尾も殺害され、真如院と前田利和(勢之佐)は幽閉されていたが、真如院は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。大槻一派に対する粛清は宝暦4年(1754年)まで続いた。 しかし、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠もなければ、真如院の居室で見つかったとされる大槻の手紙の内容もわかっていない。後の巷の実録本では真如院が大槻と結託し、みずからの産んだ子である利和を藩主の座に着けることを狙った暗殺未遂であったとするが、当時の藩による取調べでは真如院は大槻との不義密通は認めたものの、毒殺未遂事件の関与については否定しており、また真如院を取調べる側も犯行の動機については追及することなく、うやむやにしている。そもそも不義密通についても、大名の妻妾が住む「奥向き」は江戸城の大奥同様、藩主以外の男子は立入りが禁じられており、大槻が人知れず真如院とそのような関係を結ぶことはありえなかった。さらに実録本では、毒殺未遂が大槻の指示により浅尾の手で起こされたとするが、当時大槻は既に五箇山に流され厳しい監視下にあり、そのような指示は不可能である。また、さかのぼって吉徳と宗辰も大槻が殺害していたなどとも書いているが、自らにとって最大の庇護者であるはずの吉徳を失った後どうなるか、大槻に読めないはずはなく、これもあり得ない話である。現在、吉徳と宗辰の死に事件性はなく、重熙および浄珠院毒殺未遂事件も、守旧派の中心人物であった前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げたものだと考える説がある。
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