「加賀騒動」とは? わかりやすく解説

「加賀騒動」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:58 UTC 版)

「加賀騒動」の記事における「「加賀騒動」」の解説

その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半病死し異母弟前田重煕第八藩主継いだ延享5年6月26日および7月4日藩主重熙浄珠院への毒殺未遂事件発覚する浄珠院は宗辰の生母であり、重熙養育任されていた人物である。藩内で捜査した結果、これは奥女中浅尾犯行であり、さらにこの事件主犯吉徳側室だった真如院であることが判明した。これを受けて真如院居室捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通証拠として取り上げられ一大スキャンダルとなる。寛延元年1748年9月12日真如院身柄拘束されたことを聞いた大槻五箇山配所自害した寛延2年1749年)には禁固中の浅尾殺害され真如院前田利和(勢之佐)は幽閉されていたが、真如院は自ら絞殺望んでその通り殺されたという。大槻一派対す粛清宝暦4年1754年)まで続いた。 しかし、真如院主犯であったことを裏付ける証拠なければ真如院居室見つかったとされる大槻の手紙の内容わかっていない。後の巷の実録本では真如院大槻結託し、みずからの産んだ子である利和を藩主の座に着けることを狙った暗殺未遂であったとするが、当時の藩による取調べでは真如院大槻との不義密通認めたものの、毒殺未遂事件関与については否定しており、また真如院取調べる側も犯行の動機について追及することなくうやむやにしている。そもそも不義密通についても、大名妻妾が住む「奥向き」は江戸城大奥同様、藩主以外の男子立入り禁じられており、大槻人知れず真如院そのような関係を結ぶことはありえなかった。さらに実録本では、毒殺未遂大槻指示により浅尾の手起こされたとするが、当時大槻は既に五箇山流され厳し監視下にあり、そのような指示不可能である。また、さかのぼって吉徳と宗辰も大槻殺害していたなどとも書いているが、自らにとって最大庇護者であるはずの吉徳失った後どうなるか、大槻読めないはずはなく、これもあり得ない話である。現在、吉徳と宗辰の死に事件性はなく、重熙および浄珠院毒殺未遂事件も、守旧派中心人物であった前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げたものだと考える説がある。

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