加賀騒動関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/07/24 14:00 UTC 版)
1748年(寛延元年)、前田家の家督を巡る争い加賀騒動(この一件は前田重靖を擁立しようとする一派が前田直躬と組んで仕掛けた陰謀だった可能性がある)に巻き込まれ、藩主の地位を狙ったとして、江戸から召還されて閉門処分を受けた。1759年(宝暦9年)、25歳で没した。院号は心樹院。 母と大槻伝蔵の不義の子であり、前田吉徳の実子ではないとされた(この言辞からして、殺すことなく兄を追い落とそうとする弟でもない限り用いそうにない代物である)ために、長い間前田家の人間とはみなされず、供養の列からも除かれていた。1951年(昭和26年)、『毎日新聞』に掲載された村上元三の小説を契機に、加賀騒動の真相の再検討が行われ、真相が明らかになるに伴い、同母弟の八十五郎とともに吉徳の実子と断定され復権、前田家の一族として供養の列にも加えられた。
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