加賀金沢藩の明倫堂
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11代藩主・前田治脩によって寛政4年(1792年)設立。初代学頭は新井白蛾。当初は兼六園の南西部に建てられたが、居館の建立のため文政5年(1822年)に仙石町(現在の四高記念文化交流館と石川県中央公園の一部)に移転した。南西から北東方向へ廊下が続いていた経武館が武を重んじたのに対し、明倫堂は儒学等の学問を教える学校となっていた。教員は読師、助教、教授という身分に分かれ、生徒は下級武士や陪臣などが多く、生徒数は200名乃至300名でほぼ一定していた。なお設立の目的の一つに身分を区別しない四民教導があったが、それ以外への開講は限定的だった。授業内容が和学、天文学、本草学など多岐にわたる事が特徴であったが、儒学にそった漢字が多くを占めていた。 洋学の導入にともない1870年(明治3年)10月に閉校し、翌月に皇学と漢学を教える中学西校が明倫堂と経武館の校舎で開校した。翌年には洋学中心だった中学東校と合併して金沢中学校となったが、翌年四月にこれも閉校している。後に旧制第四高等学校の一部となった。なお、石川県立野々市明倫高等学校の校名は、この『明倫堂』にちなんでつけられた。
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