巷説の「加賀騒動」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:58 UTC 版)
現代では加賀騒動という「大槻一派による計画」は存在せず、大槻伝蔵を失脚させるためのでっち上げであり、大槻伝蔵についても藩立て直しの功労者であったと考える説がある。 加賀騒動の顛末は幕府など第三者視点の介入がなく、一方の守旧派が勝利したことにより対方の主張はかき消され、すなわち客観的事実を示す証拠が乏しい。真相は闇のまま、そのスキャンダラスな表層が強調され、事件は実録本と呼ばれる虚実を交えたフィクション小説となって流布してゆく。それらによれば、利和は大槻伝蔵と真如院との密通により生まれた子であり、伝蔵は主家簒奪を企図して吉徳、宗辰と藩主を二代にわたって殺害した後、さらに重熙と浄珠院をも殺害しようとしたところで事件が発覚したとするもので、前田直躬は大槻の野望を阻止し、加賀100万石を救った忠臣として描かれる。また浅尾に対する刑の執行は、数百匹の毒蛇を入れた穴蔵に浅尾を裸にして押込めたとされ、ショッキングでグロテスクな内容の物語となっている。もっとも浅尾の蛇責めについては『見語大鵬撰』が編み出した作り話であるが、むしろこうした蛇責めなどのグロテスクな部分が強調されることによって、加賀騒動は巷説としてその命脈を保ってきた面もある。加賀騒動を扱った巷の実録本は幕府より版行を禁じられ、写本の形で伝わっている。 なお、石川県政記念しいのき迎賓館(かつての石川県庁)前には大槻の屋敷から移植したといわれるシイの巨木があり、「堂形のシイノキ」と呼ばれているが、この木を伐ろうとすると祟りがあると言い習わされている。
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