巷談師の自覚と珍騒動
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1950年(昭和25年)1月には、ファルス的小説「肝臓先生」を『文學界』に発表。続いて戯作者精神を発揮した社会時評「安吾巷談」を『月刊 文藝春秋』で発表し、文藝春秋読者賞を受賞するが、この頃、再び睡眠薬を服用し、中毒症状の発作を起こした。5月から「街はふるさと」を『読売新聞』に連載し、執筆のためたびたび上京して文京区小石川林町のモミジ旅館に宿泊した。8月に「巷談師」を『別冊文藝春秋』に発表。10月からは探偵小説「明治開化 安吾捕物帖」を『小説新潮』に連載。この作品は、探偵・結城新十郎が勝海舟との談話を交えながらシリーズで解決役となる。安吾は、短編の推理の理想的な形式として日本流のシャーロック・ホームズシリーズを書こうとし、日本では岡本綺堂『半七捕物帳』のような成功作があるということで「捕物帳」になった。同月には石坂洋次郎、林房雄らとの合作によるラジオ小説『天明太郎』を宝文館で刊行した。翌1951年(昭和26年)3月から歴史考察を記した「安吾新日本地理」を『文藝春秋』にて連載開始。古代王朝に関する大胆な仮説(蘇我天皇説)も提唱した鋭い感性からくる歴史観は、その後の作家(松本清張、黒岩重吾など)が古代史を論ずる際の嚆矢となった。朝鮮戦争といった冷戦が激化する中、「マルクスレーニン筋金入りの集団発狂あれば、一方に皇居前で拍手をうつ集団発狂あり、左右から集団発狂にはさまれては、もはや日本は助からないという感じ」と記している。日本共産党を批判する一方、「本家ソビエットの共産主義政府が壊滅しても、中共だけは栄える」ことを予言した。 安吾は流行作家としての収入があっても全て使い切ってしまい、5月に税金滞納により家財や蔵書、原稿料も差し押さえとなる。国税庁に腹を立てた安吾は6月に、「差押エラレ日記」、「負ケラレマセン勝ツマデハ」を『中央公論』に書き、税金不払い闘争を行なった。夏から飛騨・高山地方を旅行し、日本古代への新たな興味を抱く。一方、この頃から競輪場に通い出し、伊東競輪のあるレースの着順判定(写真判定)に不正があったのではないかと調査、当時の運営団体である静岡県自転車振興会を検察庁に告訴するという伊東競輪不正告訴事件を9月に起こす。監督官庁である通商産業省は「坂口氏の思い違いである」として断定するが、11月にはこれについて書いた「光を覆うものなし」を『新潮』に発表し、その中で再度写真のすり替えによる不正を主張したが、12月に嫌疑不十分で不起訴となった。この時代の競輪は、チンピラヤクザの巣窟だったという。 この競輪告訴事件の泥沼化により疲れ果て、アドルムを多量に服用し伊東市から離れて、被害妄想から大井広介邸など転々と居場所を変えることになり、妻・三千代の実家や石神井の檀一雄宅に居候する。檀一雄の家に身を寄せていた頃、安吾は「ライスカレーを百人前頼んでこい」と妻に言いつけ、三千代夫人は仕方なく、近所の食堂や蕎麦屋(「ほかり食堂」と「辰巳軒」)に頼み、庭に次々と出前が積み上げられていくという「ライスカレー百人前事件」を引き起こす。檀一雄はその時の安吾について、「云い出したら金輪際にひかぬから」と語っている。その後安吾は、1952年(昭和27年)2月末、『現代文學』同人だった南川潤の紹介で群馬県桐生市本町2丁目266番地の書上又左衛門邸の離れに身を隠す。この頃、この地で古墳巡りやゴルフをはじめた。小説の執筆は激減するが、同年1月からは歴史人物譚「安吾史譚」を『オール讀物』に連載し、評論家として活躍、巷談師を自称する。同月には、チャタレー裁判を林房雄らと共に傍聴し、「チャタレイ傍聴記」を『読売新聞』に載せた。6月に「夜長姫と耳男」、9月に戯曲「輸血」を『新潮』に発表。10月からは歴史小説「信長」を新聞『新大阪』に覆面作家として連載。連載と並行して作者名を当てる懸賞募集も行われ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。
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