巷説と実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:30 UTC 版)
蒲生騒動における一連の騒動は、秀吉の意を受けた三成によって操られていた、もしくは三成本人が首謀者であったという説がある。また、三成と昵懇でかつ騒動調停にあたった前田利家と上杉景勝に加増があった。 まず、郷安についてであるが、お家騒動を成した張本人であるため処断されてもおかしくないものの、ほとんど罪に問われていないのは、三成が秀吉に弁護したためとされている。さらにその後、郷安は早々と罪を許されて三成と懇意にあった小西行長の家臣となっている。これは、三成の推挙があったためとされている。郷安は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで加藤清正軍との戦いに間に合わず、切腹して果てた。 また、蒲生家に対する厳しい処分やその後における上杉景勝の入封に関しても疑問が残る。秀行はまだ若年であるから、宿老らを統率できたとしても限度があるにもかかわらず「統率」を理由に減封している。さらに上杉景勝は家老の直江兼続を通じて石田三成と懇意にあった人物である。このため、関東における大大名・徳川家康を牽制するために重要な領土である会津に、秀吉や三成と懇意にあった上杉景勝を入封させるために計画した陰謀ではないかとされているのである。この厳しすぎる処分は、関ヶ原の戦いで蒲生家を東軍に与させる遠因にもなっている(津川城に入った上杉家の藤田信吉も東軍に走る)。 しかし、三成の陰謀とする説には多くの反証がある。 反郷安派の一人蒲生郷成は三成の家臣蒲生郷舎の父であり、郷成も含めて反郷安派は誰も処分を受けていない。三成が郷安にも郷成にも肩入れしていないことは明白である。 改易で多くの家臣を抱えきれなくなった蒲生家は相当数の家臣を手放したが、旧臣を最も多く召し抱えたのは三成であった(蒲生頼郷などが有名)。彼の陰謀で職を失ったとしたならば、旧臣たちがよりによって張本人に仕え、かつ関ヶ原や佐和山城で多くが彼のために命を投げ出すであろうか。 最もこの処置を恨んでいるはずの秀行が関ヶ原後旧領に復帰した際、3万石の高禄で仕置家老として召し抱えたのは三成の娘婿である岡重政(自証院の祖父)であった。秀行は終生重政を信頼して施政を任せており、重政が秀行の夫人である振姫との対立で切腹を命じられたのは秀行の死後である。秀行が三成を恨んでいたならば、三成と懇意である重政を迎えるはずがない。 これらの反証から、蒲生家の改易は秀吉が秀行に徳川や伊達の抑えをできる力量があるかを不安視したことと、家康の娘振姫と結婚した秀行はもう家康を抑える役割を果たさないのではないか、と考えたためとするのが妥当である。
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