海軍の兵食改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
ビタミンの先覚的な業績を上げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多寡は食物の違いによること、具体的にはタンパク質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。 その時点で脚気の原因は、タンパク質の不足にあり、洋食によってタンパク質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折を経て1884年(明治17年)1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食を招いていた)が一部見直され、洋食への切り替えが図られた(標準指定金給時代1884年〈明治17年〉 - 1889年〈明治22年〉)。 同年2月3日、大日本帝国海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験を兼ねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港した。乗組員333名のうち、脚気となったのは16名で、死者も無く、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づく医療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数は、下表のとおり推移し、以降、発生率は1%未満と激減した。 年新患者数発生率死亡数1883年(明治16年) 1,236人 23.1% 49人 1884年(明治17年) 718人 12.7% 8人 1885年(明治18年) 41人 0.6% 0人 この航海実験は日本の疫学研究の走りであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。
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