海軍の動きとカリフォルニアのメキシコ港掌握
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「カリフォルニア征服」の記事における「海軍の動きとカリフォルニアのメキシコ港掌握」の解説
米墨戦争の噂が確かなものになる以前に、アメリカ太平洋戦隊は当時のアメリカ海軍のおよそ半分に相当する艦船で補強されていた。アメリカ東海岸の港からホーン岬を回ってハワイ、あるいはカリフォルニアの港に行くには120日ないし200日間を要したので、この移動は実際に戦争が起こりそうな場合にはかなり前もって行っておく必要があった。当初アメリカ合衆国には太平洋側に港が無かったが、戦隊の艦船は海軍物資を供給する補給船を拠点にし、ハワイ諸島や太平洋岸の港に入って、食料を購入し、水を得ていた。戦隊に与えられていた命令は、戦争が起きた場合にカリフォルニアの港と都市を占領することだった。太平洋戦隊の指揮官ジョン・ドレイク・スロート代将は、米墨戦争の始まったことと、ソノマでベア・フラッグ革命が起きたという噂を耳にすると、その部隊に北カリフォルニアの港を占領開始するよう命じた。艦船USSサバンナ、USSサイアン、USSレバントが、1846年7月7日に、一発の砲弾も放つことなく、アルタ・カリフォルニアの首都モントレーを占領した。2日後の7月9日、USSポーツマスがサンフランシスコ(当時はイェルバ・ブエナ)を、これも一発の砲弾も放つことなく占領した。7月15日、スロートはその指揮権を更に攻撃的な指揮官であるロバート・ストックトンに渡した。7月中に宣戦布告が行われたというはっきりした知らせがストックトンのところに届いた。ストックトンの太平洋戦隊には、艦船数隻からの400ないし650名の海兵とブルージャックス(水兵)がおり、それがカリフォルニアにおける唯一の地上部隊だった。ストックトンの部下の残りは艦船に乗っておく必要があった。その海兵と水兵の小さな部隊を補うために、アメリカ陸軍地理工学兵団のジョン・C・フレモントに志願兵を組織させ、約160名のカリフォルニア大隊を編成することを認めた。この部隊が主に占領部隊として機能し、ストックトンの海兵と水兵を自由にした。カリフォルニア大隊の核はフレモントの遠征隊にいた約30名の陸軍兵士と、30名の斥候、元罠猟師、インディアン、地理学者、地形学者、地図学者だった。アメリカの海兵、水兵、民兵の部隊は容易に北カリフォルニア都市や港を占領していった。短時日の間に、モントレー、サンフランシスコ、ソノマ、サクラメントのサッター砦、その他小さな町を占領した。ほとんどすべての町を、一発の銃弾も放たずに抑えた。南部の都市や港も急速に従うことになり、ほとんど流血騒ぎも無かった。
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