兵食改革と脚気論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:37 UTC 版)
日本軍で流行していた脚気について、海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決に取り組み、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16年(1883年)から同18年(1885年)にかけて激減した(詳細は「日本の脚気史#海軍の兵食改革」を参照のこと)。 高木は、明治17年(1884年)の軍艦「筑波」による航海実験も行って、この兵食改革の必要性を説いた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅に一役買ったともいわれている。 明治18年(1885年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。 このため、東京大学医学部から次々に批判された。特に同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、大日本帝国海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。 のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があれば、それはことごとく反駁の声であった」と述懐している。当時の医学界の常識としては、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることがほとんどできなかった。 一説には、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまったのではないかとの見解もある。 しかし現実には、高木とその後任者たちのような薩摩閥ではなく、東京大学医学部卒の医学博士・本多忠夫が海軍省医務局長になった大正4年(1915年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。昭和3年(1928年)には1,153人、日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)から同16年(1941年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941年)は3,079人(うち入院605人)の患者が発生した。 一説には、その理由として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の遠洋行動拡大、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、タンパク質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰が崩れたこと、脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになったこと(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)、などが原因とする見解もある。 麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上に、ビタミンの発見があった。欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学から名誉学位を授与されており、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで、高木の業績が詳しく紹介されている。
※この「兵食改革と脚気論争」の解説は、「高木兼寛」の解説の一部です。
「兵食改革と脚気論争」を含む「高木兼寛」の記事については、「高木兼寛」の概要を参照ください。
- 兵食改革と脚気論争のページへのリンク