ビタミンの発見
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1910年(明治43年)6月14日、東京化学会で「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。この報告では、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出を目指して努力した。 同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。特に糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、後の「ビタミン」の概念をはっきり提示していた。 ただし、その論文がドイツ語に翻訳されたとき、「これは新しい栄養素である」という一行が訳出されなかったため、オリザニンは世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまった。なお、上述した糠の有効成分は、濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶に至らなかった。1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピクリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した(ただしニコチン酸を含む不純化合物であり、純粋単離に成功するのが1931年(昭和6年))。 1911年10月1日にオリザニンを発売したものの、都築甚之助の精糠剤アンチベリベリン(同年4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月注射液を販売)がよく売れたのに対し、なかなか医学界に受け入れられなかった。8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎が初めてオリザニンを使った脚気治療報告を行った。 当時、国内の脚気医学は、いくつかの争点をめぐって混乱していた。たとえば、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」という点である。「米糠の効否」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。糠の不純物を取り除いて有効成分を純化するためにはアルコールが使われていたが、アルコール抽出法では糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者特に重症患者に対して顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復に向かうことが多かった)。したがって、オリザニンなどビタミンB1が微量の製糠剤では効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。 また、糠の有効成分の化学実体が不明であった点でも、脚気医学は混乱していた。アンチベリベリン(都築)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてがニコチン酸を含む不純化合物であった。その中でオリザニンは、純粋単離に成功するのが販売されて20年後の1931年(昭和6年)であり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三がオリザニンの「純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。 しかし、それでも脚気は、一般人にとって難病であった。国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、毎年1万人から2万人で推移した(日本の脚気史#概要参照)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かったこと、もともと消化吸収率が良くない成分であるために発病後の摂取による治療が困難であったことが挙げられる。その後も、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半まで、毎年1千人以上の脚気死亡者が出ることになる。 なお、上記で「ビタミンの発見」としたが、鈴木が発見したのは正確にはチアミン(ビタミンB1)である。ビタミンとは微量で必要な栄養素のうち有機化合物の総称として現在は定義されている。ビタミンを初めて抽出したとして世界的に知られるのはカジミール・フンクであり、ビタミンの名称は彼の命名によるものとされるが、実際にはフンクの命名は"vitamine"であり、ビタミンを複数の栄養素の総称と定義し直されるにあたって"vitamin"と綴りが変えられた。
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