海軍の介入と中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 23:49 UTC 版)
「大野ダム (京都府)」の記事における「海軍の介入と中断」の解説
大野ダム計画が構想されていた時期は太平洋戦争に突入する時期でもあり、本来地域開発に貢献するはずのダム事業も軍部の意向でその目的が捻じ曲げられる事例が発生していた。神奈川県の相模ダム(相模川)では横須賀海軍工廠への電力・水道供給を求める大日本帝国海軍の意向が強く表れ、ダム建設に反対する水没予定地住民に対し小磯国昭、荒木貞夫、杉山元など大日本帝国陸軍首脳が海軍と共に陸海軍合同観兵式を相模川で挙行して反対住民に圧力を掛けた。また田瀬ダムでは大船渡市の人工ハイオクガソリン工場製造のための電力供給目的を追加するよう海軍が迫り、広島県の二級ダム(黒瀬川)では呉海軍工廠への電力・水道供給を目的とするため海軍がダム事業者として参入するなど、戦時体制遂行のため軍部はなりふり構わず河川行政に介入していた。また1939年(昭和14年)には電力管理法に基づき日本発送電が誕生し、1941年には配電統制令も発令されたことで電力会社は9配電会社に強制的に吸収された。こうして河川事業と密接に関わる水力発電事業も国家管理が行われ、河水統制事業は事実上軍部に掌握されつつあった。 大野ダムもこの例に漏れず、軍部の意向が計画に反映されていた。由良川下流部には舞鶴市があるがこの地には横須賀・呉・佐世保と並ぶ海軍の枢要な施設である舞鶴海軍工廠があり、工廠への電力供給は戦時体制遂行の上で重要な案件であったことから海軍は大野ダムを利用した水力発電事業で舞鶴海軍工廠への電力供給を内務省に求めた。このため当初由良川の治水目的を主眼に置いた大野ダム計画は海軍の介入によって水力発電目的を主目的とされてしまい、治水は副次的な目的に摩り替えられた。なお、当時計画された大野ダムの規模は現在のダム地点より下流200メートルの地点に、高さ69メートルの重力式コンクリートダムを建設するものであった。 以上の経緯により大野ダムは治水と水力発電を目的にした多目的ダム事業として着手され基礎岩盤の掘削工事が開始されるが、太平洋戦争の戦局は次第に日本不利となりあらゆる物資が不足。ダム事業の遂行も次第に困難となり1944年(昭和19年)には小磯内閣が決戦非常措置要項を発して全ての物資を戦争に動員する方針としたことで建設資材が欠乏、日本各地のダム事業は軒並み中断に追いやられた。大野ダムはこうした中でも舞鶴海軍工廠への電力供給という目的があったため事業が進められたが、1945年(昭和20年)日本の敗戦によりダム事業は中断となった。
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