海軍による真珠湾攻撃と東條首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
「東條英機」の記事における「海軍による真珠湾攻撃と東條首相」の解説
連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。 小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。 しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅延は東條の責任に帰することはできないものであった。
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