海軍による半自動小銃開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:47 UTC 版)
「四式自動小銃」の記事における「海軍による半自動小銃開発」の解説
1943年頃、日本海軍では落下傘部隊の火力強化を検討するにあたり、アメリカ製のM1ガーランドを再設計して配備することを計画した。以後、1945年4月まで各種改良および試作が続けられた。 海軍による半自動小銃開発は、陸軍側の計画中止を受けて開始されたともされる。元々は横須賀、呉、舞鶴の3海軍工廠が共同して自動小銃の開発を行う予定だった。しかし、いずれの海軍工廠にもこの計画に割く余力はなく、最終的には横須賀海軍工廠のみが開発に割り当てられた。また、開発は同海軍工廠の機関銃工場で行われたが、当時は機関銃および機関砲の需要が極めて大きく、優先度の低い小銃開発は機関銃/機関砲製造の空き時間に行われることとされた。 開発にあたって、海軍はアメリカ製M1ガーランドを7.7x58mm弾仕様に再設計することを検討した。M1ガーランドは、1942年のマニラの戦いの後に一定数が鹵獲されており、その一部は海軍が入手し日本本土へと持ち帰っていた。1944年初頭、M1ガーランドを7.7x58mm仕様に改造した評価用の試作銃10丁が制作された。これがその後の試験にて優れた評価を収めたことで、本格的なコピー銃の設計が始まった。 最初のコピー銃は、製造能力の確認を兼ねて、評価用M1ガーランドの改造と並行して設計が行われた。その後、海軍はこれにいくつかの改良を加えたものを四式自動小銃として採用し、実地試験のための調達を行った。中国や太平洋の各地に展開した地上部隊や落下傘部隊にこの小銃を配備し、長期に渡る実地試験を行うことが予定されていたと言われているものの、実際には極めて限られた範囲・規模でしか行われなかった。 実地試験では部品の破損、7.7x58mmの反動不足による動作不良、これに関連した給弾不良などの問題が報告されたが、一定の成功と見なされ、本格的な生産に移ることとなった。横須賀海軍工廠では生産を行う余力がなかったので、愛知県のワシノ製機にこれを任せる計画が立てられた。1945年後半に調査を行ったアメリカ陸軍が報告したところによれば、ワシノ製機には部品の製造設備がなく、横須賀海軍工廠から運び込まれたと思しき部品を組立てて製造を行っていたという。そのため、問題が発生しても対応できる技術者が社内におらず、その度に横須賀海軍工廠からの指示を待つことを余儀なくされた。こうして四式自動小銃はほとんど製造されないうちに、海軍からワシノ製機に対し、小銃の製造を中止して航空機エンジンの製造に協力するようにとの指示が行われた。敗戦後、アメリカ軍人が調査に訪れた時点で、ワシノ製機では航空機エンジンの製造への転換が半ばまで進んでいたにも関わらず、敗戦間際の混乱のため、既に不要になったはずの小銃の部品製造設備も運び込まれていたという。戦後、日本に進駐したアメリカ陸軍部隊が、ワシノ製機の工場にていくらかの四式自動小銃を回収した。また、横須賀海軍工廠からも一部が回収されている。 製造数は極めて少なく、正確には不明だが、いくつかの数字が上げられている。アメリカ軍が100丁程度を接収したという報告、組み立てられたのは125丁以下という推測、ワシノ製機の工場に150丁分の部品が運び込まれ、このうち50丁ほどが組み立てられていたという報告などがある。
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