海軍のトップに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:04 UTC 版)
1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、海軍もバランスをとる必要性から、1932年(昭和7年)2月2日付で、博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した。同年5月27日付で、元帥府に列せられ元帥の称号を受ける。 1933年(昭和8年)10月、軍令海第5号軍令部令により海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであり、特に皇族である博恭王は「伏見軍令部総長宮(ふしみぐんれいぶそうちょうのみや)」と呼称される。また、北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている(#外部リンクを参照)。 海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進した。 ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功し、軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。 二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、昭和天皇の不興を買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている。 太平洋戦争(大東亜戦争)中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。
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