明治時代から戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 17:40 UTC 版)
開国した日本は「諸外国に誇れる総合芸術を」と大芝居に目を向け、また大芝居側もより堅実で高度な芝居をしたいという、双方の利害が一致し、大芝居の近代化が図られた。こうして、明治初年から20年代にかけて演劇改良運動が起こる。大芝居は明治政府と松竹により保護、「国劇」と認知され、大芝居とその他亜流(小芝居、旅芝居)の明確な線引きが生まれることになる。大芝居は「大歌舞伎」、小芝居は「中歌舞伎」という呼び名がここで生まれた。大歌舞伎はこの後、今日の「歌舞伎」へと進化していく。 演劇改良運動の急激な改革に反発、あるいは零れ落ちた大芝居の役者達の小芝居・旅芝居や新たな一座を立ち上げる流れや、江戸時代から盛んだった地方部の農村歌舞伎のセミプロの流れが、離合集散し全国を巡業した。明治中期に新派、仁輪加、浪花節の旅一座などと時折合同公演を行ううち、節劇が生まれた。 大正末期から一角の繁栄を築いていた一方、大阪はじめ西日本では(九州では特に)「節劇」と呼ばれる浪花節を舞台回しに使う演劇が流行していた。 新劇と呼ばれるもののうち、澤田正二郎の劇団「新国劇」は大衆演劇の直接の起源の一つとされている。1919年(大正8年)発表の『月形半平太』・『国定忠治』によって確立した剣劇は、今まで小芝居・旅芝居で演じられてきた歌舞伎の形式・形を踏まえつつも殺陣を用いた「チャンバラ時代劇」であった。そして1928年(昭和3年)、大衆作家と呼ばれた長谷川伸が新国劇に書き下ろした『沓掛時次郎』・『股旅草鞋』によって股旅物が確立する。 この剣劇・股旅物を主として演じる小芝居・旅芝居の役者・劇団が、「大衆演劇」と呼ばれ始めるのはこの頃からである。
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