意味の変遷
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「テレビっ子」は当然ながらテレビ放送開始によって生まれた語である。 テレビ放送開始時点で大人だった世代から見て、子供の時からテレビを見て育った世代が異質に見えた。そして「テレビっ子」は後の「新人類」などと同じように用いられた。多くの場合「最近の若いもんは」と同様に否定的な意味で使われた。しかし評論家の中には中立的または肯定的な「全く別の世代、別の人種である」との評価もあった。たとえば前述の「現代用語の基礎知識」竹村健一の文章では「活字人間とは過度に視覚に頼った世代であるのに対し、テレビ人間は五感を全て使用する」との論を繰り広げている。 「テレビが家庭に来ると、子供はテレビばかり見て勉強しなくなるのではないか?」という懸念はテレビ放送開始時からあったようである。しかしテレビ普及初期においては、家にテレビがあるのは比較的裕福で新技術に興味を持つ世帯であり、それ以外の子供は街頭テレビや友人宅のテレビに頼っていた。また「子供のテレビ視聴時間と親の視聴時間は相関している」との調査結果が早い段階で発表されており、躾の問題であるとの認識が教育界を中心に広まり、指導方法の提案が行われた。そのため「ヘビービュアーは勉強をなまけるとか学校の成績が落ちたとかいうと必ずしもそういう結果は出ていないようである」(現代用語の基礎知識)という論も多かった。 その一方で「テレビから乱暴な遊びを真似をする」「言葉遣いが乱れる」、特に低年齢児では「コマーシャルソングをすぐ覚え、いつも口ずさむ」「子供に関係ない商品の名前まで覚えてしまう」「幼児でさえテレビの操作や番組の時刻を覚えてしまう」など、予期せぬ子供達の行動に多くの大人が驚き戸惑った。テレビが成長途上の子供に大きな影響を与える事を肯定的に評価して「知識欲が高まる」「理科社会の勉強の役に立つ」「社会的知識が豊富になる」などの論もあった。しかし実際のテレビ番組は「一億総白痴化」論(1957年)に代表されるように低俗さを指弾される事が多かった。当時の「テレビっ子」の用法はこれらの意識を反映していると思われる。 その後「一家に一台」の時代が到来し、家庭環境に関わらず全ての子供がテレビにかじりつく事が可能になった。自動車の普及により外で遊びにくくなったなど、必ずしもテレビだけのせいとは言えない部分もあるが、「外で友達と遊ばなくなる」「テレビだけ見てだらだら過ごす」「夜遅くまでテレビを見ている」「読書をしなくなる」などの問題点が指摘され、重視聴児の意味での「テレビっ子」が問題視されるようになった。 また、1950年代までは親の社会階層・所得階層・職業・その他属性による子供の行動の違いを問題として意識し議論し、それらを調査研究する事が数多く行われ、その結果も広く発表されていたのに対し、1960年代前半頃からそのような議論・調査をする事自体がタブー視され始め、広く公表される事がなくなる。テレビ視聴についても、1963年の朝日新聞では「もともと家庭環境などに欠陥がある子供がテレビを見て不良化する」など、視聴時間よりも深刻な問題を指摘する論を掲載していたのに、1984年の朝日新聞では「個人や家庭の努力で目に見えて解決できる分野」の象徴的事例として「テレビ視聴時間との相関」を挙げ、極めて楽観的な態度に変化している。このように、子供の変化とは別に、親・教育・メディア側の問題意識の方が変化した部分もある。 テレビが完全に普及し、新たなメディアや娯楽が生まれつつあった昭和60年頃から、子供のテレビ視聴時間は微減の傾向になり、批判の矛先はテレビゲームなどに向く。しかし他の娯楽に比べれば「スイッチを入れてぼけっと見る」事が出来る点でテレビは受動的であり、これを「テレビっ子」の問題点として挙げる教育学者も少なくない。 現在では人口の半数以上が 1.の意味での「テレビっ子」となり、テレビの影響が生活の中に完全に織り込まれている。このような状況で、一部専門分野を除き 1.の意味で使う理由はない。しかし現代っ子(1961年)、カギっ子(1963年)の走りとも言える言葉であり、日本語として定着しており、2.の意味で使われ続けている。
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意味の変遷
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元々“カウボーイ”と言う単語は“牛泥棒”を意味したとも言われ、牛飼に対する単語は、スペイン語の“vaquero”が使われていた。しかし、19世紀後半に入ると、メキシコやテキサスなどを中心に大陸南部から、西部、中西部にかけての原野で野生化していた“牛を駆り集め(round-up)”、それを市場である東部やゴールドラッシュに沸く西部に届けるために大陸横断鉄道の中継地である中西部や北部の町へ “馬と幌馬車を連ね何日もかけて移送する業務 ロングドライブ(Long Cattle Drive)”に従事していた労働者を指す言葉に変化していった。よって当時は牧場主や牧童、牛飼をカウボーイと呼ぶことは無かったが、現在は牛の世話をする牧童という意味で一般化している。 西部開拓の完全な終焉を迎えた20世紀に入ると、西部劇や小説などにおいてノスタルジックなロマンをかきたてる対象として美化され始め、現在ではアメリカの象徴ともいえる存在となっている。また職業に関係なく、踵の高いブーツ(カウボーイブーツ)を履きカウボーイハットを被った者等も“カウボーイ”と呼ばれることがあり、特にそういう格好をした農業従事者やトラックドライバーやカントリー・ミュージシャンなどが そう呼ばれることも多い。 また、その野性的で勇敢なイメージはアメリカ男性の一般的肖像とされ、それが転じたスラングとして、“粋な伊達男(色男)”、“やんちゃ坊主”、“目立ちたがり屋”、“無茶な運転をするドライバー”などをカウボーイと呼ぶ場合もある。
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意味の変遷
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文部省教育が定着する以前は否定を伴わない用法も珍しくはなかったが世俗の中で現在の否定を伴う用法が確定していった。近年、明治時代から戦前までの近代語とは違った意味ではあるが、否定を伴わない用法が再度増えており、これは誤用、もしくは俗用として扱われる。 三省堂国語辞典(第6版) ぜんぜん[全然](副)〔あとに打ち消しや「ちがう・別だ」などのことばが続いて〕すこしも。まるで。「―知らない」 完全に。すっかり。「―支配されている」 〔俗〕〔ほかとくらべて、また、自分の予想や人の意見とちがって〕ひじょうに。「―かわいい」 岩波国語辞典(第6版) ぜんぜん【全然】(副)(ア) 《後に打消しの言い方や否定的な意味の表現を伴って》まるっきり。「―読めない」「―だめだ」 (イ) すっかり。全面的に。「心は―それに集中していた」「―同感だ」⇒肯定に使ったこの用法にも実例が多い。ただし「非常に」「断然」の意に使うのは俗用。 「―平気だ」は「―気にしない」「―構わない」との混交か。 新潮現代国語辞典 ぜんぜん【全然】(副)(一) 打消を強める語。まるで。「―色気のない平気な顔では〔草枕〕」 (二) まったく。完全に。「一体生徒が―悪るいです〔坊つ〕」「妻を迎へて一家団欒の楽を得ようとして、―失敗した博士も、此城丈は落されまいと〔半日〕」 「こうやって演壇に立つのは、―諸君のために立つのである、唯諸君のために立つのである、と救世軍のようなことを言ったって〔漱石・大阪講演〕」 「―監督者の口吻(コウフン)である〔続悪魔〕」 小学館現代国語例解辞典 (第4版)ぜんぜん【全然】(副)全く。まるで。「全然知らない」 ▽あとに打消や否定表現を伴って用いる語だが、俗に、「非常に」「とても」の意で用いられることがある。 明治時代には夏目漱石も「全然」を「全面的に」「完全に」の意味で否定を伴わず使っていた。夏目漱石のほかに石川啄木、森鷗外、芥川龍之介らも「全然」を否定を伴わず使っている。 戦前から昭和30年代にかけて活躍したギャグマンガ家「杉浦茂」が昭和31年、32年ごろ書いた『少年西遊記』にこんな場面が登場する。 「にくだんごはいかがでしたか?」と聞かれた孫悟空が「ぜんぜんおいしかったよ」と答えている。 これは「全面的に」「完全に」の意味ではなく「非常に」の意味である。
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意味の変遷
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古代、男性が女性の名を知ることがその女性を占有することと同義だった。この時代には、結婚を前提としての交流手段だったと考えられる。この風習に関する記述は、『万葉集』などで散見される。 室町時代ころから武家の間で男性支配の婚約の形として、当事者の意志に関係なく取り交わされる形になった。これは、戦乱の世の中で、政略として結婚が行われたためと考えられる。この時代の許嫁は、当事者の意志を無視したものであり、悲運に泣いた女性の物語も多く残されている。 現在では、古い形での婚約がなくなり、婚約した当人同士が相手をさす言葉になった。
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意味の変遷
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ラテン語の sigillum が語源である。signum の派生語で、signum は英語では sign となった。 英語としての本来の意味は、文書の真性を証明する印章類である。西洋の封蝋に代表されるが、東洋の印鑑も含まれる。ブランドなど内容を示す意匠そのものをシールという場合がある。 封蝋は文書を封印する機能を持つことから、封印 / 封緘の意味も持つ。これから、流体の流出を防ぐシール(シーリング)という意味も派生した。電気や建築、またMicrosoft Excelなどにおける関数など、一部分野では語源の異なる「シーリング」が用いられるために、誤解を生むこともあるが、こちらは天井 (ceil) 関係の用語である。 証明や封印の機能を持つものなら、印章でなくてもよい。社会福祉団体などが寄付者に発行する糊付きの封かん紙が「シール」と呼ばれている。日本でも、ユニセフシールや結核予防会の複十字シールなどがある。また別の封緘紙では、現金書留郵便封筒の封緘シールは、よく知られている。 さらに、アメリカでは本来の「シール」の機能を外れ、用途を問わず糊付きの紙片をシールと呼ぶこともある。日本ではアメリカの影響で、戦後は特に主にこの意味で使われる。しかし本来英語ではまれな用法である。英語では通常、用途・大きさ・材質などにより sticker スティカー(ステッカー)、decal ディーカル(デカール)、label レーベル(ラベル)などと、分類されて呼ばれる。日本語での「シール」全体をひとことで表す英語はない。 接着剤の粘性を利用して貼り付けるものが多いが、静電気を利用し、粘性に頼らない「静電シール」も開発され、機密保持などに応用されている。
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