旗本寄合席時代
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安永7年(1778年)5月6日、黒石領4000石と黒石津軽家の家督を継ぐ。安永9年(1780年)11月18日、10代将軍・徳川家治に御目見する。天明2年(1782年)4月16日、本家弘前藩7代藩主・津軽信寧より偏諱を受け、寧親と改名した。天明7年(1787年)に父同様に本所深川火事場見廻役となっている。
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旗本寄合席時代
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分家で木脇領主でもある旗本寄合席・秋月家当主の秋月種記が危篤、死去したために、文久3年6月15日(1863年)に旗本秋月家の家督を相続することとなり、同年12月12日(1864年1月21日)に幕府より相続が認可される。なお多門櫓文書の明細短冊では「年 二十一」とされる。ちなみに一時松代藩主真田幸教の養子候補に上った次兄の種樹は、同年6月26日(1863年)に正式に高鍋藩の嗣子となっている。 実父の種任や養祖父の種博は老中脇坂安宅の姻戚であり、養父の種記は諸大夫任官前に死去していたとはいえ中奥小姓を勤め、次兄の種樹は高鍋藩嗣子や若年寄格学問所奉行、徳川家茂の侍読となったが、種事自体は旗本として目立った出世をすることがなかった。 また、藩主の種殷や藩主嗣子の種樹、高鍋藩主家から旗本秋月家の当主となった秋月種封や秋月種備が掲載されている明治時代までの武鑑の高鍋藩主秋月家の系図に、種事は掲載されなかった。 元治元年(1864年)刊行の須原屋茂兵衛蔵版武鑑において、御寄合衆に「三千石 秋月幾三郎」と見える。 慶応2年8月26日(1866年)、幕府陸軍の組合銃隊改役に就任し、同年12月18日(1867年)に布衣を許可される。慶応3年(1867年)刊行の武鑑において組合銃隊改役に「秋月幾三郎」が見える。しかし、同慶応3年(1867年)に慶応の改革の一環により組合銃隊が廃止されたことで御役御免となり、以降大政奉還と王政復古の大号令の末に幕府が滅亡するまで幕職につくことはなかった。
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