旗本堀越氏
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『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、遠江堀越氏を称する堀越定次(堀越貞吉)が徳川家康に仕え、子孫が旗本として続いている。 『寛政譜』編纂時に堀越家から提出された系譜によれば、堀越貞基の子・堀越氏延は、今川家が没落したのち上野国新田に寓居していたが、文禄元年(1592年)に徳川家康にまみえた。氏延の子が貞吉であるという。ただし『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』)では先祖の系譜が異なっているといい、『寛政譜』本文では、上野国小泉城主富岡主税助に仕えた堀越佐渡守定久から始まる系譜を採っている。定久の子・堀越伊予守定吉が菅沼定利に附属し、定吉の子が堀越定次である。 堀越定次は文禄2年(1593年)に家康に拝謁、当初菅沼定利に属して九戸政実の乱にも出陣したが、慶長7年(1602年)に定利が没すると家康の命によって忍城の城番を務めた。定次は寛永2年(1625年)に致仕したが、長男の堀越貞勝が翌寛永3年(1626年)から、二男の堀越定正が寛永11年(1634年)から、それぞれ忍城城番を務めている。堀越貞勝・定正の兄弟は寛永17年(1640年)に江戸に召し出され、『寛政譜』編纂時には貞勝・定正の子孫がそれぞれ旗本として存続している。
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