旗本品川家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 06:50 UTC 版)
旗本の品川家は、江戸幕府の高家を務めた家系のひとつ。駿河の戦国大名であった今川氏(清和源氏足利一門、吉良氏の傍流)から分かれた家であり、今川氏真(今川義元の子、今川家12代)の次男品川高久を家祖とする。 初代高久は慶長3年(1598年)、徳川秀忠に御目見し、慶長6年(1601年)に1000石を給された。「今川の名字は嫡流のみ」という室町時代以来の由緒(天下一苗字)を重んじた秀忠から名字を改めることを命じられ、高久は屋敷のある品川の地名を名字とした。以後、品川家は今川宗家とともに江戸幕府の下で高家旗本として続き、2代高如・3代伊氏・11代氏繁が高家職(奥高家)に就いた。 2代高如は実子(松平重治)を能見松平家の跡目に出し、重治の子の伊氏が外祖父の跡を継いで3代当主となっている。伊氏は元禄・宝永期に高家肝煎を務め、今川宗家をしのぐ1500石まで加増された。 高久の兄・範以の系統である今川宗家は13代直房(高久の甥)が継承したが、実子が相次いで早世し、後継者に恵まれなかった。吉良家庶流から養子に迎えられた14代今川氏堯(範以の外曾孫。高久の外孫でもある)も実子を残さずに没したため、15代からは品川家初代の高久の男系子孫で補っている。品川伊氏は実子2人を相次いで今川宗家に送り出し、16代・17代当主としている。今川宗家は17代今川範主(伊氏の次男)ののち、幕末まで安定した男系相続を続けることになる。 その一方で品川家は成人の後継者を失い、生後間もなくして家督を継いだ4代範増(伊氏の三男)が正徳3年(1713年)にわずか2歳で夭折したため、一旦断絶してしまう。翌年、伊氏の弟の信方によって高家旗本品川家の再興が認められるが、家禄を300石に減らされた。6代氏如が実子を残さなかったため、品川家では高久の男系血統が絶えた。7代以降は旗本の子弟を迎えて家名を存続させている。 また、品川高久の次男・品川高寛は分家を立てており、一般の(高家ではない)旗本となっている。
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