ノイケルンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
1945年4月下旬、独ソ戦の最終局面であるベルリン市街戦(ソビエト赤軍がドイツ国の首都ベルリンを包囲し、東西南北から市内へ突入している状況)において、武装親衛隊(「ノルトラント」師団、フランスSS突撃大隊)とその他(国民突撃隊、ヒトラーユーゲントなど)が防衛するベルリン「C」地区(ベルリン南東部・ノイケルン区)には、ソ連邦元帥ゲオルギー・ジューコフ率いる第1白ロシア戦線 (1-й Белорусский фронт / 1st Belorussian Front) 麾下の将軍(独ソ戦屈指のソ連邦英雄)が指揮を執る赤軍部隊が攻め込んでいた。 1945年4月下旬 ベルリン市街戦でベルリン南東部の攻略を担当した赤軍部隊 ワシーリー・チュイコフ上級大将の第8親衛軍 (8-я гвардейская армия / 8th Guards Army) ミハイル・カトゥコフ大将の第1親衛戦車軍 (1-я гвардейская танковая армия / 1st Guards Tank Army) ベルリン・ノイケルン区(濃い灰色の箇所) ノイケルンの地図 1945年4月26日未明、ノイケルン区の庁舎(Rathaus Neukölln:ノイケルン区役所)にフランスSS突撃大隊本部を設置したアンリ・フネSS義勇大尉は、「ノルトラント」師団の戦車部隊の支援を伴った反撃作戦を計画した。 午前5時頃に布陣したフランスSS突撃大隊の各部隊のうち、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第1中隊は隣接するテンペルホーフ区守備隊に一時配属されていたため不在であったが、残りの中隊は予定の時刻を1時間過ぎた午前6時頃に通達された攻撃命令に従って出撃した。 第2中隊:ベルリン通り(Berliner Straße、現カール=マルクス通り (Karl-Marx-Straße))からリヒャルト通り (Richard Straße) に沿って出撃 第3中隊:ブラウナウ通り(Braunauer Straße、現ゾンネンアレー (Sonnenallee))からリヒャルト広場 (Richardplatz) 方面へ出撃 第4中隊:大隊の予備兵力。ベルリン通りとヘルマン通りの交差点付近にある墓地で待機 戦術学校:ヘルマン通り (Hermannstraße) およびヘルマン広場 (Hermannplatz) に展開 ノイケルンの戦い開始前後の様子をフネは次のように述べている。 我々の各中隊は(4月26日の)夜明け前にヘルマン広場とハーゼンハイデ公園 (Hasenheide) に集結した。これらの場所には既に味方(「ノルトラント」師団)の戦車が待機していた。ケーニヒスティーガー1輌が通りの角に進み、さらに後方に数輌のパンターと突撃砲が待機した。我らが擲弾兵たちは通りの両側面を確保し、攻撃命令を待った。 攻撃は0600前に開始された。後方の戦車からの援護射撃の下、擲弾兵が戦闘隊形でベルリン市街の道を南〜南東に向かって前進した。壁や瓦礫を乗り越えて攻撃し、家々を奪取。大隊の予備小隊(第4中隊)はノイケルン区役所で敵の砲火にさらされ、15名が戦死した。 ベルリン市街の道を進むフランスSS突撃大隊の各中隊は、間もなくソビエト赤軍の戦車、対戦車砲、PM1910重機関銃、迫撃砲、狙撃兵からの攻撃に直面した。たちまち激戦が繰り広げられ、パンツァーファウストでT-34を撃破する武装親衛隊フランス人義勇兵、そしてその彼らを的にした赤軍狙撃兵によって双方の被害は甚大なものとなった。 ノイケルン区役所に戻ったフネは分断されつつある大隊の状況を探っていたが、午前7時頃、「ノルトラント」師団から「もし攻撃を未だに開始していないのであれば、攻撃を中止して新たな命令を待て。もし攻撃を開始しているのであれば、諸君の全力を尽くすべし」という奇妙な命令が通達された。 事の真相を確かめるため、フネは副官のハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉 (SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt) を「ノルトラント」師団司令部へ向かわせた。やがて戻ってきたフォン・ヴァレンロートの話によると、フランスSS突撃大隊と「ノルトラント」師団がノイケルンで反撃を開始した朝、赤軍は圧倒的多数の軍勢でベルリン中心街へ攻撃を集中させたという。「これからどうしますか?」と冷静に尋ねるフォン・ヴァレンロートに対し、フネは側面との連絡を回復するため各中隊に現在地を維持するように命じた。 やがて、パンツァーファウストやKar98kを装備したヒトラーユーゲントの少年達(14歳〜17歳)が援軍としてフネの大隊本部に到着し、さらに伝令のおかげで各中隊との連絡も回復した。 4月26日の夜明け以来、フランスSS突撃大隊の伝令班長ピエール・ミレSS義勇兵長 (SS-Frw. Rttf. Pierre Millet) は最も重要かつ危険な任務を実行していた。ミレが命令を各中隊に伝えるために廃墟に入る度に、フネは二度と彼の姿が見えなくなるのではと心配していた。しかし、1944年のガリツィア戦と1945年のポメラニア戦を経験した20歳の活発なミレSS義勇兵長は常にフネのもとに帰還し、「任務を完了しました!」と報告した。 4月26日午後、フネはミレを伴って各中隊を巡回したが、厳しい状況に改善の兆しは見られなかった。区役所付近まで戻ってきたフネたちは道路を横切って区役所内に入ろうとしたが、その瞬間、赤軍の砲弾が彼らの周囲で爆発した。ミレが地面に崩れ落ちて事切れるのと同時に、フネは足に焼けるような感覚を覚えた。区役所内に運び込まれたフネはドイツ人医師の治療を受けたが、幸いにも銃弾は骨に当たることなくフネの左足を貫通していた。 その間にも建物の外では銃撃戦が続いていたため、フネは大隊本部第2補佐アルフレド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux) に対し、近隣の赤軍兵を一掃するよう命令した。拳銃を手にしたドゥールーは自分の近くにいた者を集めて掃討部隊を結成し、手榴弾と銃剣を多用する白兵戦で建物1軒1軒から赤軍兵を駆逐していった。約45分後、武装親衛隊フランス人義勇兵の陣地の制圧を目論んでいた赤軍部隊を近隣一帯から蹴散らしたドゥールーの部隊は反撃を開始した。 反撃に出たフランスSS突撃大隊の将兵はベルリン通りに現れたT-34縦隊のうち数輌をパンツァーファウストで撃破したが、フランス兵の対戦車攻撃を掻い潜ったT-34は進撃を続けた。この時、戦車警報を受けた「ノルトラント」師団のティーガーII1輌が路地で待ち伏せの体勢に入っており、大隊長フネと第2補佐ドゥールーはこのティーガーIIからさほど離れていない場所で赤軍戦車の接近音を耳にした。 そして間もなく、建物の角から姿を現した先頭のT-34はティーガーIIの88mm砲によって瞬時に撃破され、動かなくなった。武装親衛隊フランス人義勇兵たちは赤軍戦車兵がT-34のハッチを開けて脱出することを予測して突撃銃を構えたが、「虎」に食われたT-34の乗員は誰一人として炎上する「鉄の棺桶」から出てこなかった。 その後、ピエール・ミレSS義勇兵長の戦友数名は援護射撃を受けながら大隊本部前の道路に進み、路上に横たわっている「茶色と緑色の斑点迷彩服姿、土埃で汚れた金髪、(血で)真っ赤な顔の」ミレの遺体を収容した。 「SS部隊と、やつらのティーガーが頑強に戦っているので、これ以上速くは前進できない」 ソビエト第1白ロシア戦線第8親衛軍司令官チュイコフ上級大将。ベルリン市内における第8親衛軍の進撃が遅れていることを非難する上司ジューコフ元帥への電話での返答。 4月26日午後半ば、フランスSS突撃大隊の頑強な抵抗はノイケルン区役所奪取を目論む赤軍の更なる大攻勢を招いた。T-34をはじめとする赤軍戦車部隊に対し、武装親衛隊フランス人義勇兵とヒトラーユーゲントの少年たちは悪鬼のごとく戦った。この時、片足を負傷していた大隊長フネは椅子に座ったままノイケルン区役所防衛の指揮を執り続け、「抵抗精神を具体化」(incarne l'âme même de la résistance) していた。 4月26日午後5時、フランスSS突撃大隊はベルリン「C」地区の主要防衛線から切り離された。弾薬と燃料が残りわずかとなった「ノルトラント」師団の戦車部隊も後退したが、後退命令を受け取っていないフネはノイケルン区役所に留まることにした。
※この「ノイケルンの戦い」の解説は、「アンリ・フネ」の解説の一部です。
「ノイケルンの戦い」を含む「アンリ・フネ」の記事については、「アンリ・フネ」の概要を参照ください。
- ノイケルンの戦いのページへのリンク