ポメレリア公国
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10世紀にはポメレリアにスラブ系のポメラニア人が入植したが、ピャスト朝のポーランド王ボレスワフ1世により征服された。11世紀、ポメラニア人は独立した公国を誕生させる。 1116年/1121年、ポメラニア全域が再度ポーランド王国(国王ボレスワフ3世)に征服された。1121年にヴァルティスラフ1世のもとでポメラニア公国が独立するが、東部のポメレリアはポーランド領のままに残った。1138年、ボレスワフ3世が没すると、ポーランドはいくつかの半独立状態の公国へと細分化が始まり、ポメレリアでも公国が徐々に力を増して自立を始めた。これらの公国はピャスト朝の末裔が治めていたが、ポメレリア公国はソビェスワフ家(Sobiesław)によって治められる王朝(Samborides)が支配した。このソビェスワフ家は1294年まで続いた。1227年にはポメレリアは独立国となるが、その公はポーランド王およびデンマーク王の封臣であった。デンマークは、1210年のヴァルデマー2世国王の時期に、ポメラニアとプロシアで起こった異教徒の反乱を名目にこの地方に介入している。 ポメレリア公国はさらに小さく細分化されていた。グダンスク(Gdańsk, ダンツィヒ)、ビャウォガルト(Białogarda, ベルガルト)、シフィエチェ(Świecie, シュヴェッツ)、ルビシェヴォ・トチェフスキェ(Lubieszewo-Tczew, リーブシャウ=ディルシャウ)などである。有名なポメレリア公にはムシチュイ1世(1207年 – 1220年)、シフィエントペウク2世(1215年 – 1266年)、ムシチュイ2世(1271年 – 1294年)がいる。シフィエントペウク2世はポメレリアをデンマークとポーランドの宗主権下から脱出させることに成功したが、ムシチュイ2世の代には1269年のアルンスヴァルデの和約によってブランデンブルク辺境伯の宗主権下に置かれてしまった。 ポメレリアには、ポーランドの支配下の時代にキリスト教が導入された。ポメラニアのほとんどはカミン司教区(カミン Cammin は現在のポーランド北西部の西ポモージェ県カミェン・ポモルスキにあたる)に属していたが、ポメレリアはクヤヴィア司教区(クヤヴィア Kuyavia はポーランド中部のクヤヴィ地方 Kuyawy で、司教座はクヤヴィ=ポモージェ県ヴウォツワヴェク Włocławek にある)に属していた。グディニャ近郊のオリヴァ修道院がポメレリアのキリスト教の中心地であった。
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