ポメレリア公国とは? わかりやすく解説

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ポメレリア公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 03:43 UTC 版)

ポメレリア」の記事における「ポメレリア公国」の解説

10世紀にはポメレリアスラブ系ポメラニア人が入植したが、ピャスト朝ポーランドボレスワフ1世により征服された。11世紀ポメラニア人は独立した公国誕生させる。 1116年/1121年、ポメラニア全域再度ポーランド王国国王ボレスワフ3世)に征服された。1121年ヴァルティスラフ1世のもとでポメラニア公国独立するが、東部ポメレリアポーランド領のままに残った1138年ボレスワフ3世没すると、ポーランドはいくつかの半独立状態の公国へと細分化始まりポメレリアでも公国徐々に力を増して自立始めた。これらの公国ピャスト朝末裔治めていたが、ポメレリア公国はソビェスワフ家(Sobiesław)によって治められる王朝(Samborides)が支配した。このソビェスワフ家1294年まで続いた1227年にはポメレリア独立国となるが、その公はポーランド王およびデンマーク王封臣であったデンマークは、1210年ヴァルデマー2世国王時期に、ポメラニアプロシア起こった異教徒反乱名目にこの地方介入している。 ポメレリア公国はさらに小さく細分化されていた。グダンスクGdańsk, ダンツィヒ)、ビャウォガルト(Białogarda, ベルガルト)、シフィエチェ(Świecie, シュヴェッツ)、ルビシェヴォ・トチェフスキェ(Lubieszewo-Tczew, リーブシャウ=ディルシャウ)などである。有名なポメレリア公にムシチュイ1世1207年1220年)、シフィエントペウク2世1215年1266年)、ムシチュイ2世1271年1294年)がいる。シフィエントペウク2世ポメレリアデンマークポーランド宗主権下から脱出させることに成功したが、ムシチュイ2世の代には1269年のアルンスヴァルデの和約によってブランデンブルク辺境伯宗主権下に置かれてしまった。 ポメレリアには、ポーランド支配下時代キリスト教導入された。ポメラニアのほとんどはカミン司教区カミン Cammin は現在のポーランド北西部西ポモージェ県カミェン・ポモルスキにあたる)に属していたが、ポメレリアはクヤヴィア司教区(クヤヴィア Kuyavia はポーランド中部のクヤヴィ地方 Kuyawy で、司教座クヤヴィ=ポモージェ県ヴウォツワヴェクocławek にある)に属していた。グディニャ近郊オリヴァ修道院ポメレリアキリスト教中心地であった

※この「ポメレリア公国」の解説は、「ポメレリア」の解説の一部です。
「ポメレリア公国」を含む「ポメレリア」の記事については、「ポメレリア」の概要を参照ください。

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