ドイツ海軍時代
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「ルイージ・トレッリ (潜水艦)」の記事における「ドイツ海軍時代」の解説
1943年8月30日、『ルイージ・トレッリ』は険しい哨戒網を潜り抜けて無事にシンガポール基地に到着し、日本へウルツブルク・レーダーの技術が伝達された。任務を達成した『ルイージ・トレッリ』であったが、9月8日にベニート・ムッソリーニ国家統領に対する王党派のクーデターと連合国との講和という想定外の事態が発生する。イタリアの王党派によるクーデターをドイツのアドルフ・ヒトラー総統が承認せず、イタリア北部を占領した上でムッソリーニを救出してイタリア社会共和国(RSI)を建国させ、旧イタリア王国は事実上の内戦状態に陥った。 こうした状況下で『ルイージ・トレッリ』は基地に展開する枢軸軍に武装解除を要求され、他に停泊していた3隻の潜水艦と共に乗組員は一旦、身柄を拘束される事になった。『ルイージ・トレッリ』は新たに成立したイタリア社会共和国海軍ではなく接収艦Uボート(de)として『UIT25』の呼称でドイツ国防軍に編入された。他に編入された潜水艦も含めて、その後サロ政権側に就いたイタリア海軍の乗組員が引き続き運用したが、指揮権はドイツ海軍の提督が引き継いだ。 『UIT25』は主に太平洋海域でのドイツ海軍の哨戒任務に従事し、1945年にイタリア社会共和国が政権崩壊に追い込まれ、続いてドイツがベルリン陥落で降伏するまで作戦活動を続けた。
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ドイツ海軍時代
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「フランソワ・アポロ」の記事における「ドイツ海軍時代」の解説
ドイツ海軍入隊後、1944年5月~6月の間にフランソワ・アポロは他のドイツ海軍フランス人義勇兵と同様にアルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)駐屯中のドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊(Schiffsstammabteilung 28)第6中隊に配属され、6~8週間に渡る過酷な訓練(肉体鍛錬・基本教練)を受けた。 ゼンハイムでの訓練期間終了後の1944年7月1日、訓練の次の段階へ進むために第6中隊はドイツ西部の都市デュースブルク(Duisburg)へ送られた。ここで第6中隊は名称を「第2中隊」に変更され、ドイツ海軍フランス人義勇兵たちは数ヶ月間に渡って武器教練、海軍の専門訓練、湖や河川におけるボート操縦訓練を受けた。 なお、この時期のアポロの同僚(戦友)のドイツ海軍フランス人義勇兵の1人に、後にアポロと同じく武装親衛隊フランス人義勇兵として1945年4月末のベルリン市街戦に至るまで戦い続け、フランス人初の騎士鉄十字章受章者となるウジェーヌ・ヴォロ(Eugène Vaulot)がいる。
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ドイツ海軍時代
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「ゲーベン (巡洋戦艦)」の記事における「ドイツ海軍時代」の解説
詳細は「ゲーベン追跡戦」を参照 本艦はブローム・ウント・フォス社によってハンブルク造船所で建造された。ゲーベンとは、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベン(de:August Karl von Goeben)にちなんで命名されたものである。本艦は、ドイツ帝国の海外侵食に押される形で、第一次バルカン戦争の最中に新編成された地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) の旗艦として配備される。同じく新鋭のマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウ (SMS Breslau) を伴い1912年11月上旬に出航し、道中を完熟訓練の場として地中海に到着した。地中海に配備後は「お披露目」として各地を周り、ギリシャ・ブルガリア・イタリア・エジプトを歴訪、1914年5月にはイスタンブールを訪れた。 オーストリア=ハンガリー帝国のポーラ軍港で修理をおこなったゲーベンは、24ノット程度なら出せるようになったという。同年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国とセルビアが戦争状態に入ると、本艦はドイツ帝国の参戦に備えてアルジェリア沖へ向かった。8月3日のフランスへの宣戦後に、前日に締結されたドイツ帝国とオスマン帝国の同盟によって、イスタンブールへの回航を命じられた。なおインヴィンシブル級巡洋戦艦2隻(インヴィンシブル、インドミタブル)と遭遇し、早々に追跡を開始されている。 ゲーベンは軽巡洋艦ブレスラウと共にアルジェリア沿岸を砲撃し、フランス陸軍の輸送を妨げようと試みた。砲撃自体は成功したものの、肝心の陸軍はまだ移動前であったために被害は限定的なものであった。むしろ、この行為は追っ手に自らの存在を証明する何よりの証拠となってしまった。これ以降、ドイツ地中海艦隊は「逃げの一手」を打ち地中海を逃げ回った。この頃、イギリス地中海艦隊は巡洋戦艦3隻・装甲巡洋艦4隻という強力な火力を持ち、高速軽巡洋艦4隻を擁する有力な戦力を持っていたのだが、ドイツ地中海艦隊はイギリス艦隊の追跡をかわした。 ドイツ艦隊はダーダネルス海峡へ到達、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)に停泊した。オスマン帝国に購入されたゲーベンは、オスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムとなった。ブレスラウもオスマン帝国海軍のミディッリ (Midilli) と改名し、引き続きヤウズ・スルタン・セリム(旧ゲーベン)と行動を共にした。この時、両艦乗組員はそのままオスマン海軍に移り、引き続きドイツ人将兵(ズーホン少将、アッカーマン艦長)の手によって運用された。
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