ベル=アリアンス広場
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「アンリ・フネ」の記事における「ベル=アリアンス広場」の解説
ベルリン・クロイツベルク区(Kreuzberg、現フリードリヒスハイン=クロイツベルク区) クロイツベルクの地図 1945年4月28日未明、ソビエト赤軍はベルリン・クロイツベルク区(Kreuzberg、現フリードリヒスハイン=クロイツベルク区)のハレ門 (Hallesches Tor) 近くに流れるラントヴェーア運河 (Landwehrkanal) を渡り、戦車多数をベル=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz、現メーリング広場 (Mehringplatz))に前進させた。この広場から出る3つの道 フリードリヒ通り (Friedrichstraße) ヴィルヘルム通り (Wilhelmstraße) ザールラント通り(Saarlandstraße、現シュトレーゼマン通り (Stresemannstraße)) は、いずれも総統官邸に至る重要な道であった。 アンリ・フネSS義勇大尉のフランスSS突撃大隊はベル=アリアンス広場に戦車破壊(駆逐)班を2個派遣した。「ノルトラント」師団が出した援軍要請によってフネの副官ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉率いる第1班が出撃した1時間後、大隊本部小隊長リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart) 率いる第2班も出撃した。そして夜が明ける頃には、フランスSS突撃大隊の残存部隊全てが交戦状態に突入していた。4月27日夜から4月28日にかけての大隊の戦闘の様子をフネは次のように述べている。 われわれはベル=アリアンス広場と帝国官房(総統官邸)の入り口の間で戦っていた。ベルリンの中心部にあった2つの有名な通り、ヴィルヘルム通りとフリードリヒ通りもわれわれの戦区だった。夜も昼も、ほとんど休むことのない砲弾の豪雨を浴びていた。大隊は撃ちまくる戦車に陣地を攻撃され、ロシア兵は火炎放射器でわれわれを追い出しにかかった。家々の裏庭で、屋根の上で、突撃銃、手榴弾、銃剣を使ってわれわれはあらゆる場所で戦った。 この時、第2補佐アルフレド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生の助けを借りながら「ノルトラント」師団司令部へ出頭したフネは、グスタフ・クルケンベルクSS少将に戦況を報告した。その後、総統官邸へ続く道を指揮官無しで守っているフランスSS突撃大隊を心配してフネはその場を離れようとしたが、クルケンベルクは「どこへ行こうというのだ?」と尋ね、さらにフネが26日に足に負った戦傷を考慮して「まともに立つこともできないだろうに…君はここから動くな。司令部で大人しくしていろ」とフネに命じた。この命令にひどく腹を立てながらも、フネは部屋の隅に腰掛け、副官フォン・ヴァレンロートSS中尉への命令を直ちに書き記してドゥールーへ持たせた。 部下たちが赤軍戦車を相手に激戦を繰り広げている間、フネにとって部下のもとへ戻れないことは非常に業を煮やすものであった。そこでフネは再び前線に戻る許可をクルケンベルクに要請したが、この時のクルケンベルクはそれを許可した。敬礼の後、クルケンベルクが気を変える前にフネは即座にその場を立ち去った。 ドゥールーを連れて大隊本部に戻る途中、フネはベルリン地下鉄駅構内にある救護所の1つへ搬送された大隊本部小隊長リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長を見舞った。戦闘中に脚と膝に被弾したアンヌカールはもはや自力で立つこともできない状態であったが、戦闘から離脱せざるを得ないことを悔しがっていた。フネはアンヌカールが戻ってきた時に彼が倒すロシア人(赤軍兵)を残しておくと約束した。
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