1943-1944とは? わかりやすく解説

1943-1944

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/08 16:44 UTC 版)

ブルー・リッジ (AGC-2)」の記事における「1943-1944」の解説

ロングアイランド湾での試験航海の後チェサピーク湾での訓練のため1943年10月8日ニューヨーク出航した11月1日に2隻の駆逐艦と共に南太平洋向かったパナマ運河通過後、ソシエテ諸島フィジー経由しオーストラリアブリズベン12月16日入港した3日ニューギニアミルン湾に向け出発し24日到着。第7水陸両用部隊(Seventh Amphibious Force)司令官ダニエル・E・バーベイ(英語版海軍少将旗艦となった1944年8月13日まで西部ニューギニアの戦い英語版)の総旗艦務めた後、フィリピン解放戦に参戦するためバーベイ少将北方攻撃部隊Northern Attack Force旗艦としてホーランジア出撃した。 1944年10月19日-20日夜間スリガオ海峡通過20日朝にはレイテ島上陸指揮艦務め6日間わたって水陸強襲上陸支援従事した23日には日本軍偵察を、25日には雷撃機それぞれ対空砲火によって退けた25日午後に敵機11機に射撃実施26日朝には船団攻撃してきた敵爆撃機5機の、同日午後には3機以上の爆撃機撃退援護した爆弾のうち1つは、艦体を揺さぶるほどの近さ落下した10月26日夜、リンガエン湾上陸作戦準備を行うためサン・ペドロ湾出てニューギニアに向かう。本艦には、新たにサン・ファビアン攻撃部隊司令官となったバーベイ提督彼の幕僚だけでなく、陸軍第1軍団指揮するイニス・P・スウィフト英語版少将、第43歩兵師団英語版)の指揮官レナード・F・ウィング英語版少将の姿もあった。 12月28日にサン・ファビアン攻撃部隊率いてニューギニアのアイタペを出撃年明け1月2日対空砲火航空機追い払う1月4日夜に巡洋艦駆逐艦援護群に引き続きスリガオ海峡通過してミンダナオ海に入る。1月8日夜、敵航空機6機を共同撃退。そして1月9日艦隊リンガエン湾突入した。(リンガエン湾侵攻英語版))上陸戦では何度か危うい場面はあったものの、幸運に逃れることができた。

※この「1943-1944」の解説は、「ブルー・リッジ (AGC-2)」の解説の一部です。
「1943-1944」を含む「ブルー・リッジ (AGC-2)」の記事については、「ブルー・リッジ (AGC-2)」の概要を参照ください。


1943-1944

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/12 03:52 UTC 版)

カトクティン (揚陸指揮艦)」の記事における「1943-1944」の解説

カトクティンは1943年1月23日蒸気船メアリー・ホイットリッジとしてカリフォルニア州オークランドのムーア・ドライドック社にて合衆国海事委員会英語版)の契約の下進水命名A・Hモートン夫人よる。同年8月31日海軍移管され、同日ハンス・バーナード・オルセン予備中佐指揮の下で就役した。 9月14日から10月11日の約1ヶ月をかけて、カリフォルニア州ロングビーチから東海岸ペンシルベニア州フィラデルフィアへと移動。そこで一旦退役し作戦通信司令船として改装を受け、チャールズ・オーウェン・コンプ中佐指揮下で1944年1月24日現役復帰大西洋艦隊配属された。 慣熟航海が終わると、3月5日アルジェ向けてノーフォーク離れる3月19日には第8艦隊旗艦となる。7月8日ナポリへと出港ナポリではイギリス国王ジョージ6世本艦訪問した数ヶ月の間、本艦南仏侵攻作戦立案旗艦務めた8月13日作戦発動に伴いジェームズ・フォレスタル海軍長官筆頭とした陸海空高官乗せてナポリ出撃8月15日早朝上陸予定浜辺沖合い到着作戦中は陸海空問わずあらゆる将兵部隊指示発した8月18日ドイツ空軍放った榴散弾により乗組員6人が戦死31人が負傷した9月9日トゥーロン到着し15日にはフランス艦隊シャルル・ド・ゴール将軍出迎えた25日トゥーロン離れナポリ向かい年明けまでそこで過ごした

※この「1943-1944」の解説は、「カトクティン (揚陸指揮艦)」の解説の一部です。
「1943-1944」を含む「カトクティン (揚陸指揮艦)」の記事については、「カトクティン (揚陸指揮艦)」の概要を参照ください。


1943 - 1944

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 19:46 UTC 版)

ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1944」の解説

ミネアポリス1943年8月戦線復帰し以後20ヵ月及んで太平洋戦線主要な戦い参加し続けた復帰後、10月5日7日行われたウェーク島への攻撃参加11月20日から12月4日までのブタリタリへの攻撃と、1944年2月中旬までのクェゼリンの戦いおよびマジュロ占領作戦に際しては、第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の護衛あたった2月17日から18日行われたトラック島空襲にも参加した第5艦隊司令長官であるスプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船多数残っていると考え空襲後には外に出てくるだろうと推測した。どうしても先頭切って戦いたかったスプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦念頭にこれまでの第5艦隊旗艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) から乗り換え配属されたばかり戦艦ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) を新たな第5艦隊旗艦にしたのであるミネアポリスは、タサファロング沖でともに鼻先をもぎ取られ、ともに復帰してきたニューオーリンズとともにロバート・C・ギッフェン少将率いられスプルーアンス大将直率の戦艦ニュージャージーおよびアイオワ (USS Iowa, BB-61) 、駆逐艦4隻とともにトラック諸島の外を一周午後もだいぶ経った頃、部隊艦載機空襲により航行不能になっていた軽巡洋艦香取駆逐艦舞風、および脱出を図る駆逐艦野分発見スプルーアンス大将戦艦目標野分に、ミネアポリスニューオーリンズ目標香取にと割り振った野分脱出成功したが、香取舞風射撃続けながら沈没していった。また、この戦い前後特設駆潜艇および駆潜艇砲火撃沈した第58任務部隊トラック攻撃の後にマリアナ諸島攻撃休息整備挟んで3月から4月にかけてカロリン諸島パラオトラックおよびサタワン環礁ポンペイ島攻撃した。これらの攻撃は、4月ホーランディアの上作戦援護兼ねたのだったミネアポリス5月マジュロ帰投し、休養マリアナ諸島への攻撃参加6月14日サイパン島に対して艦砲射撃行った日本艦隊接近しつつあるという報に接しミネアポリス第58任務部隊に再合流6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦では、ミネアポリスは第7戦艦部隊ウィリス・A・リー中将)の指揮下にあり、至近弾を投下されたが大した損傷ではなかった。海戦アメリカ側大勝利終わった7月8日から8月9日にかけては、ミネアポリスグアムの戦い参加し昼夜分かたぬ艦砲射撃により第3海兵師団長から「上手く行われた任務」と賞賛された。9月6日から10月14日パラオへの攻撃参加した後、息つく暇なくレイテ島向かい10月17日レイテ湾入って事前砲撃行い反撃してきた5機の日本機を撃墜した

※この「1943 - 1944」の解説は、「ミネアポリス (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「1943 - 1944」を含む「ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事については、「ミネアポリス (重巡洋艦)」の概要を参照ください。


1943 - 1944

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 11:36 UTC 版)

ポートランド (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1944」の解説

詳細は「キスカ島撤退作戦」および「コテージ作戦」を参照 南部カリフォルニア水域運用訓練行った後、ポートランド5月後半アリューシャン列島向けて出航し6月11日到着したアッツ島攻略作戦アッツ島占領した連合軍は、つづいてキスカ島攻略目指した。7月になると、ロバート・C・ギッフェン少将指揮する巡洋艦駆逐艦キスカ島対す艦砲射撃おこなった7月22日、ギッフェン少将艦隊重巡3、軽巡1、駆逐艦5)とグリフィン少将艦隊戦艦2重巡1)は陸軍基地航空隊と共にキスカ島攻撃した7月23日日本時間7月24日)、アメリカ軍カタリナ飛行艇アッツ島南西200海里地点で7隻の船をレーダー捕捉しキンケイド提督はこれを日本軍増援輸送船団判断し隷下のギッフェン少将グリフィン少将艦隊対処命じた7月26日日本側の撤収部隊濃霧起因する多重衝突事故の対応に追われていて、キスカ島突入どころではなかった。一方アメリカ側は、暗号解読などで26日もしくは27日日本艦隊キスカ島出現する判断していた。同26日0007以降戦艦2隻(ミシシッピーアイダホ)、重巡洋艦ポートランドウィチタサンフランシスコ)と護衛駆逐艦行動中、戦艦巡洋艦レーダーで「敵艦隊」を捉え、約30分間にわたり砲撃おこなったピップス戦い)。弾薬燃料不足したので、アメリカ艦隊撤収した警戒のため駆逐艦1隻(ハル)配備された。この間隙をぬって第一水雷戦隊司令官木村昌福少将率い撤収部隊突入し7月29日日本守備隊収容して島を去った8月になり、ロックウェル提督率い上陸作戦部隊は、チャールズ・コレット少将指揮下する約37000の上部隊乗せてアダック島出撃した。戦艦2隻(ペンシルヴェニアアイダホ)、巡洋艦ポートランドサンタ・フェ)などを含むアメリカ艦隊が、上陸作戦支援する8月15日夜明け前アメリカ艦隊キスカ島艦砲射撃浴びせ上陸作戦はじまった既述のように日本軍キスカ島から撤退していたので、上陸作戦は完全な空振り終わった8月17日ポートランド小キスカ島への偵察上陸部隊対す支援射撃行った戦場離脱し9月23日真珠湾到着10月初めにサンフランシスコ帰還するその後10月半ばに再び真珠湾到着した1943年11月から1944年2月までポートランドギルバート・マーシャル諸島の戦い参加したその後3月30日4月1日パラオヤップウルシー環礁ウォレアイ環礁対す空母攻撃部隊護衛行ったポートランド続いて空母部隊と共にホーランディアタナメラの上支援4月21日から24日にかけて行う。その後トラック島攻撃部隊一部として、他の5隻の巡洋艦駆逐艦と共に北方向かいポートランドサタワン環礁への砲撃行った一連の任務完了するポートランドオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。オーバーホール戦線復帰すると9月12日から14日にかけてペリリュー島の上陸前艦砲射撃行った上陸作戦9月15日始まりポートランド5日間にわたって支援射撃行い日本軍拠点破壊したポートランド9月29日までペリリュー艦砲射撃行いその後マヌス島ゼーアドラー湾向かった続いてフィリピンへの攻撃部隊加わったポートランドは、10月17日レイテ島到着翌日レイテ湾入りした。ポートランド上陸前艦砲射撃行い日本軍抵抗撃退した10月24日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦太平洋戦争における最大規模海戦となったレイテ沖海戦両軍戦闘序列)。ポートランドは、第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将指揮する第77任務部隊 (Task Force 77) に所属し火力支援担当する第77任務部隊第2群指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将)として行動する10月25日未明スリガオ海峡海戦では、第二戦隊司令官西村祥治中将率い日本艦隊第一遊撃部隊第三部隊通称西村部隊」または「西村艦隊」)と、第77任務部隊砲雷撃戦が繰り広げられた。海峡交差した第77任務部隊は、丁字戦法西村部隊集中砲火浴びせた砲撃魚雷集中攻撃浴びて山城沈没西村中将戦死した最上時雨損傷しながら戦場離脱し第77任務部隊同士討ち駆逐艦アルバート・Wグラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が損傷した巡洋艦3隻(ルイスビルポートランドデンバー)は撤退してゆく最上追いかけ砲撃浴びせたが、とどめをさせずに振り切られた。第77任務部隊の他の軽巡駆逐艦は、海峡取り残されていた駆逐艦朝雲袋叩きにして沈めた

※この「1943 - 1944」の解説は、「ポートランド (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「1943 - 1944」を含む「ポートランド (重巡洋艦)」の記事については、「ポートランド (重巡洋艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1943-1944」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1943-1944」の関連用語

1943-1944のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1943-1944のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのブルー・リッジ (AGC-2) (改訂履歴)、カトクティン (揚陸指揮艦) (改訂履歴)、ミネアポリス (重巡洋艦) (改訂履歴)、ポートランド (重巡洋艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS