1943-1944
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「ブルー・リッジ (AGC-2)」の記事における「1943-1944」の解説
ロングアイランド湾での試験航海の後、チェサピーク湾での訓練のため1943年10月8日にニューヨークを出航した。11月1日に2隻の駆逐艦と共に南太平洋へ向かった。パナマ運河通過後、ソシエテ諸島、フィジーを経由しオーストラリアのブリズベンに12月16日に入港した。3日後ニューギニアのミルン湾に向け出発し24日に到着。第7水陸両用部隊(Seventh Amphibious Force)司令官のダニエル・E・バーベイ(英語版)海軍少将の旗艦となった。1944年8月13日まで西部ニューギニアの戦い(英語版)の総旗艦を務めた後、フィリピン解放戦に参戦するためバーベイ少将の北方攻撃部隊(Northern Attack Force)旗艦としてホーランジアを出撃した。 1944年10月19日-20日の夜間にスリガオ海峡を通過。20日朝にはレイテ島上陸の指揮艦を務め、6日間にわたって水陸強襲上陸の支援に従事した。23日には日本軍の偵察を、25日には雷撃機のそれぞれを対空砲火によって退けた。25日午後には敵機11機に射撃を実施。26日朝には船団を攻撃してきた敵爆撃機5機の、同日午後には3機以上の爆撃機の撃退を援護した。爆弾のうち1つは、艦体を揺さぶるほどの近さに落下した。10月26日夜、リンガエン湾上陸作戦の準備を行うためサン・ペドロ湾を出てニューギニアに向かう。本艦には、新たにサン・ファビアン攻撃部隊司令官となったバーベイ提督と彼の幕僚だけでなく、陸軍第1軍団を指揮するイニス・P・スウィフト(英語版)少将、第43歩兵師団(英語版)の指揮官レナード・F・ウィング(英語版)少将の姿もあった。 12月28日にサン・ファビアン攻撃部隊を率いてニューギニアのアイタペを出撃。年明けの1月2日に対空砲火で航空機を追い払う。1月4日夜には巡洋艦・駆逐艦の援護群に引き続き、スリガオ海峡を通過してミンダナオ海に入る。1月8日夜、敵航空機6機を共同で撃退。そして1月9日に艦隊はリンガエン湾に突入した。(リンガエン湾侵攻(英語版))上陸戦では何度か危うい場面はあったものの、幸運にも逃れることができた。
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1943-1944
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「カトクティン (揚陸指揮艦)」の記事における「1943-1944」の解説
カトクティンは1943年1月23日、蒸気船メアリー・ホイットリッジとしてカリフォルニア州オークランドのムーア・ドライドック社にて合衆国海事委員会(英語版)の契約の下進水。命名はA・H・モートン夫人による。同年8月31日に海軍に移管され、同日ハンス・バーナード・オルセン予備中佐指揮の下で就役した。 9月14日から10月11日の約1ヶ月をかけて、カリフォルニア州ロングビーチから東海岸のペンシルベニア州フィラデルフィアへと移動。そこで一旦退役し、作戦・通信司令船として改装を受け、チャールズ・オーウェン・コンプ中佐指揮下で1944年1月24日に現役復帰。大西洋艦隊に配属された。 慣熟航海が終わると、3月5日にアルジェに向けてノーフォークを離れる。3月19日には第8艦隊旗艦となる。7月8日、ナポリへと出港。ナポリではイギリス国王ジョージ6世が本艦を訪問した。数ヶ月の間、本艦は南仏侵攻作戦立案の旗艦を務めた。8月13日、作戦発動に伴いジェームズ・フォレスタル海軍長官を筆頭とした陸海空の高官を乗せてナポリを出撃。 8月15日早朝、上陸予定の浜辺の沖合いに到着。作戦中は陸海空を問わずあらゆる将兵、部隊に指示を発した。8月18日、ドイツ空軍の放った榴散弾により乗組員6人が戦死、31人が負傷した。9月9日にトゥーロンに到着し、15日にはフランス艦隊とシャルル・ド・ゴール将軍を出迎えた。25日にトゥーロンを離れナポリへ向かい、年明けまでそこで過ごした。
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1943 - 1944
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「ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1944」の解説
ミネアポリスは1943年8月に戦線に復帰し、以後20ヵ月に及んで太平洋戦線の主要な戦いに参加し続けた。復帰後、10月5日と7日に行われたウェーク島への攻撃に参加。11月20日から12月4日までのブタリタリへの攻撃と、1944年2月中旬までのクェゼリンの戦いおよびマジュロ占領作戦に際しては、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の護衛にあたった。2月17日から18日に行われたトラック島空襲にも参加した。 第5艦隊司令長官であるスプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船が多数残っていると考え、空襲後には外に出てくるだろうと推測した。どうしても先頭を切って戦いたかったスプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦を念頭に、これまでの第5艦隊旗艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) から乗り換え、配属されたばかりの戦艦ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) を新たな第5艦隊旗艦にしたのである。ミネアポリスは、タサファロング沖でともに鼻先をもぎ取られ、ともに復帰してきたニューオーリンズとともにロバート・C・ギッフェン少将に率いられ、スプルーアンス大将直率の戦艦ニュージャージーおよびアイオワ (USS Iowa, BB-61) 、駆逐艦4隻とともにトラック諸島の外を一周。午後もだいぶ経った頃、部隊は艦載機の空襲により航行不能になっていた軽巡洋艦香取と駆逐艦舞風、および脱出を図る駆逐艦野分を発見。スプルーアンス大将は戦艦の目標を野分に、ミネアポリスとニューオーリンズの目標を香取にと割り振った。野分は脱出に成功したが、香取と舞風は射撃を続けながら沈没していった。また、この戦いの前後に特設駆潜艇および駆潜艇を砲火で撃沈した。 第58任務部隊はトラック攻撃の後にマリアナ諸島を攻撃。休息と整備を挟んで3月から4月にかけてカロリン諸島、パラオ、トラックおよびサタワン環礁、ポンペイ島を攻撃した。これらの攻撃は、4月のホーランディアへの上陸作戦の援護を兼ねたものだった。ミネアポリスは5月にマジュロに帰投し、休養後マリアナ諸島への攻撃に参加、6月14日にサイパン島に対して艦砲射撃を行った。日本艦隊が接近しつつあるという報に接し、ミネアポリスは第58任務部隊に再合流。6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦では、ミネアポリスは第7戦艦部隊(ウィリス・A・リー中将)の指揮下にあり、至近弾を投下されたが大した損傷ではなかった。海戦はアメリカ側の大勝利に終わった。7月8日から8月9日にかけては、ミネアポリスはグアムの戦いに参加し、昼夜分かたぬ艦砲射撃により第3海兵師団長から「上手く行われた任務」と賞賛された。9月6日から10月14日にパラオへの攻撃に参加した後、息つく暇なくレイテ島に向かい、10月17日にレイテ湾に入って事前砲撃を行い、反撃してきた5機の日本機を撃墜した。
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1943 - 1944
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「ポートランド (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1944」の解説
詳細は「キスカ島撤退作戦」および「コテージ作戦」を参照 南部カリフォルニア水域で運用訓練を行った後、ポートランドは5月後半にアリューシャン列島に向けて出航し、6月11日に到着した。アッツ島攻略作戦でアッツ島を占領した連合軍は、つづいてキスカ島の攻略を目指した。7月になると、ロバート・C・ギッフェン少将が指揮する巡洋艦と駆逐艦がキスカ島に対する艦砲射撃をおこなった。7月22日、ギッフェン少将の艦隊(重巡3、軽巡1、駆逐艦5)とグリフィン少将の艦隊(戦艦2、重巡1)は陸軍基地航空隊と共にキスカ島を攻撃した。7月23日(日本時間7月24日)、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダーで捕捉し、キンケイド提督はこれを日本軍増援輸送船団と判断し、隷下のギッフェン少将とグリフィン少将の艦隊に対処を命じた。7月26日、日本側の撤収部隊は濃霧に起因する多重衝突事故の対応に追われていて、キスカ島突入どころではなかった。一方のアメリカ側は、暗号解読などで26日もしくは27日に日本艦隊がキスカ島に出現すると判断していた。同26日0007以降、戦艦2隻(ミシシッピー、アイダホ)、重巡洋艦(ポートランド、ウィチタ、サンフランシスコ)と護衛の駆逐艦で行動中、戦艦や巡洋艦はレーダーで「敵艦隊」を捉え、約30分間にわたり砲撃をおこなった(ピップスの戦い)。弾薬と燃料が不足したので、アメリカ艦隊は撤収した。警戒のため駆逐艦1隻(ハル)が配備された。この間隙をぬって第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が率いる撤収部隊が突入し、7月29日に日本守備隊を収容して島を去った。 8月になり、ロックウェル提督が率いる上陸作戦部隊は、チャールズ・コレット少将が指揮下する約3万7000名の上陸部隊を乗せてアダック島を出撃した。戦艦2隻(ペンシルヴェニア、アイダホ)、巡洋艦(ポートランド、サンタ・フェ)などを含むアメリカ艦隊が、上陸作戦を支援する。8月15日夜明け前、アメリカ艦隊はキスカ島に艦砲射撃を浴びせ、上陸作戦がはじまった。既述のように日本軍はキスカ島から撤退していたので、上陸作戦は完全な空振りに終わった。8月17日、ポートランドは小キスカ島への偵察上陸部隊に対する支援射撃を行った。戦場を離脱し、9月23日に真珠湾に到着、10月初めにサンフランシスコに帰還する。その後10月半ばに再び真珠湾に到着した。 1943年11月から1944年2月までポートランドはギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加した。その後3月30日、4月1日にパラオ、ヤップ、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁に対する空母攻撃部隊の護衛を行った。 ポートランドは続いて空母部隊と共にホーランディア、タナメラへの上陸支援を4月21日から24日にかけて行う。その後トラック島攻撃部隊の一部として、他の5隻の巡洋艦、駆逐艦と共に北方に向かい、ポートランドはサタワン環礁への砲撃を行った。 一連の任務が完了するとポートランドはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。オーバーホール後戦線復帰すると9月12日から14日にかけてペリリュー島への上陸前艦砲射撃を行った。上陸作戦は9月15日に始まり、ポートランドは5日間にわたって支援射撃を行い、日本軍の拠点を破壊した。ポートランドは9月29日までペリリューで艦砲射撃を行い、その後マヌス島のゼーアドラー湾に向かった。 続いてフィリピンへの攻撃部隊に加わったポートランドは、10月17日にレイテ島に到着、翌日レイテ湾入りした。ポートランドは上陸前艦砲射撃を行い、日本軍の抵抗を撃退した。 10月24日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦は太平洋戦争における最大規模の海戦となった(レイテ沖海戦、両軍戦闘序列)。ポートランドは、第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将が指揮する第77任務部隊 (Task Force 77) に所属し、火力支援を担当する第77任務部隊第2群(指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将)として行動する。10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、第二戦隊司令官西村祥治中将率いる日本艦隊(第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村部隊」または「西村艦隊」)と、第77任務部隊の砲雷撃戦が繰り広げられた。海峡を交差した第77任務部隊は、丁字戦法で西村部隊に集中砲火を浴びせた。砲撃と魚雷の集中攻撃を浴びて山城は沈没、西村中将は戦死した。最上と時雨は損傷しながら戦場を離脱し、第77任務部隊の同士討ちで駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が損傷した。巡洋艦3隻(ルイスビル、ポートランド、デンバー)は撤退してゆく最上を追いかけて砲撃を浴びせたが、とどめをさせずに振り切られた。第77任務部隊の他の軽巡と駆逐艦は、海峡に取り残されていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた。
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