ワロニー部隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:43 UTC 版)
「リュシアン・リッペール」の記事における「ワロニー部隊」の解説
1940年9月24日、リッペールは将校専用収容所から解放された。解放後はドイツ軍占領下のベルギーに帰国し、国王レオポルド3世の軍事顧問ファン・オーフェルストラーテン将軍(General Van Overstraeten)に近い立場の者が管轄し、ベルギー軍予備役将校団の者が加入している新組織「ワロン労働奉仕サービス」(Service Volontaire du Travail pour la Wallonie、略称SVTW)に所属した。 ベルギーがドイツに占領されてから1年数ヶ月経った1941年8月8日、ソビエト連邦と戦うワロン人義勇兵部隊「ワロニー部隊」(Légion Wallonie)が結成された。この時27歳のリッペールは、同部隊が結成準備を進めていた1941年7月の時点から既に入隊していた。 ベルギーを出発したワロニー部隊はメゼリッツ(Meseritz、現ミエンジジェチ(ポーランド語版))の兵舎に到着し、基礎訓練を経た後の1941年10月初旬、第373ワロン歩兵大隊(Wallonische-Infanterie Bataillon 373)としてドイツ陸軍南方軍集団の所属となった。 リッペールは陸軍少尉(Leutnant)として第373ワロン歩兵大隊本部の参謀を務め、ウクライナやロシア南部での数多くの作戦に参加した。大隊初の本格的戦闘となった1942年2月末のグロモヴァヤ=ヴァルカの戦いでは、その活躍によって二級鉄十字章を受章 し、併せて陸軍中尉(Oberleutnant)に昇進した。 1942年6月6日、メゼリッツに転勤となった3代目大隊指揮官ゲオルゲス・チエーホフ大尉(Hptm. Georges Tchekhoff)の後任として、リッペールは第373ワロン歩兵大隊の4代目指揮官に就任した。なお、レクシズム党首レオン・デグレル少尉の影響力が部隊結成当初から強く根付いているワロン人部隊 の中でリッペールはレクシズム支持者ではなかったが、デグレルとリッペールの関係は良好であった。 1942年夏、リッペールは第373ワロン歩兵大隊指揮官としてブラウ作戦に参加し、コーカサス戦線に従軍した。8月25日には一級鉄十字章、歩兵突撃章、戦傷章黒章、東部戦線従軍記章を受章し、併せて陸軍大尉(Hauptmann)に昇進した。
※この「ワロニー部隊」の解説は、「リュシアン・リッペール」の解説の一部です。
「ワロニー部隊」を含む「リュシアン・リッペール」の記事については、「リュシアン・リッペール」の概要を参照ください。
- ワロニー部隊のページへのリンク