ワレンバーグの活躍
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「ラウル・ワレンバーグ」の記事における「ワレンバーグの活躍」の解説
ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件にこれを受諾、危険を承知の上で1944年7月ハンガリーのブダペストに赴いた。 ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。 他にもセーフハウスといわれる家を各地に設置して、そこをスウェーデンの外交官特権で保護し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、保護証書を大量に印刷してはユダヤ人に配布し、ナチスの兵隊たちの前でも一歩も退かなかった。あるとき、多くのユダヤ人が貨物列車につめられてブダペスト駅から国境へ送られると聞くと、駅へ急行し、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、ついには列車の屋根に上って多くのユダヤ人に保護証書を渡した。そしてハンガリー国境を出る前に、外交官の権利によって多くのユダヤ人を解放することに成功した。 1944年10月、ハンガリーではドイツ軍によって政府が倒され(パンツァーファウスト作戦)、反ユダヤ主義の「矢十字党」が政権を握った(国民統一政府)。ドイツはさらなるユダヤ人迫害を実行するため、アドルフ・アイヒマンをハンガリーに送り込んだ。矢十字党政府と占領者のドイツ軍によってユダヤ人迫害は本格化された。その中で十万人近いユダヤ人たちをハンガリー国境まで歩いて移動させ、そこから収容所へ送るという「死の行進」が実行された。道中で多くのユダヤ人が倒れたが、ワレンバーグはそこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてそれをとめさせることに成功した。さらにブダペストからの撤退するドイツ軍がユダヤ人をゲットーに閉じ込めて皆殺しする計画を建てていたことを知り、責任者である将校に直接交渉してこれを阻止している。ドイツ側にとってワレンバーグは邪魔者であり、彼の身にはたびたび危険が迫った。
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