「ワロニー部隊」とは? わかりやすく解説

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「ワロニー部隊」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 17:38 UTC 版)

第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「「ワロニー部隊」」の解説

しかし、1941年6月22日ドイツ軍ソビエト侵攻作戦バルバロッサ」を開始すると、7月初旬ベルリン当局レクシズム対しワロン人から成る反共義勇部隊創設許可した。そこでデグレルは7月20日演説自分自身義勇部隊参加し共産主義と戦うことを宣言したレクシズム準軍事組織FC」(Formations de Combat)の隊員中心となった部隊は「ワロン義勇軍」(Corps Franc Wallonie)、後に「ワロニー部隊」(Légion Wallonie)と呼ばれた。 デグレルは将校として同義部隊入隊する旨の希望出していたが、彼に軍事的経験・知識不足していたため、その願いドイツ側却下された。やむをえずデグレルは兵卒(兼レクシズム指導者)として部隊加わり部隊指揮官には元ベルギー植民地軍退役将校ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Captain-Commandant Georges Jacobs)が任命された。 1941年8月8日、860名のワロン人義勇兵所属する部隊ブリュッセル北駅(Gare de Nord)から列車乗り込み基礎訓練のために東へ向かった8月12日にはメゼリッツ(Meseritz、現ミエンジジェチMiędzyrzecz)に到着し8月22日にはドイツ国防軍司令官としてアドルフ・ヒトラー忠誠を誓う宣誓式を執り行ったちなみに28日にはデグレル個人に対して忠誠を誓う宣誓式が執り行われた)。この時期ワロン人部隊の編制次の通りワロニー部隊(Légion Wallonie) 1941年8月12月 大隊指揮官 ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Capt-Cdt. Georges Jacobs参謀 リュシアン・リッペール少尉(Lt. Lucien Lippert各種医療部隊カトリック従軍司祭ドイツ人連絡将校 第1中隊 アルベール・ヴァン・ダム上級大尉(Capt-Cdt. Albert Van Damme) 第2中隊 ウィリィ・エヴェール大尉(Hptm. Willy Heyvaert) 第3中隊 ゲオルゲス・チェーホフ大尉(Hptm. Georges Tchekhoff) 第4中隊 ルネ・デュプレ大尉(Hptm. René Duprés) 1941年10月初旬一通り訓練完了したワロン人義勇兵部隊は「第373ワロン歩兵大隊」(Wallonische Infanteriebataillon 373)としてドイツ陸軍加わりウクライナ作戦行動中の南方軍集団(Heeresgruppe Süd)の所属となった10月15日時点16名の将校776名の下士官・兵所属していた大隊東進し11月2日ドニエプロペトロフスク(Dniepropetrovsk)に結集した

※この「「ワロニー部隊」」の解説は、「第28SS義勇擲弾兵師団」の解説の一部です。
「「ワロニー部隊」」を含む「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事については、「第28SS義勇擲弾兵師団」の概要を参照ください。

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