「ワロニー部隊」
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「「ワロニー部隊」」の解説
しかし、1941年6月22日にドイツ軍がソビエト侵攻作戦「バルバロッサ」を開始すると、7月初旬にベルリン当局はレクシズムに対し、ワロン人から成る反共義勇部隊の創設を許可した。そこでデグレルは7月20日の演説で自分自身も義勇部隊に参加し、共産主義と戦うことを宣言した。レクシズムの準軍事組織「FC」(Formations de Combat)の隊員が中心となった部隊は「ワロン義勇軍」(Corps Franc Wallonie)、後に「ワロニー部隊」(Légion Wallonie)と呼ばれた。 デグレルは将校として同義勇部隊に入隊する旨の希望を出していたが、彼には軍事的経験・知識が不足していたため、その願いはドイツ側に却下された。やむをえずデグレルは兵卒(兼レクシズム指導者)として部隊に加わり、部隊の指揮官には元ベルギー植民地軍の退役将校ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Captain-Commandant Georges Jacobs)が任命された。 1941年8月8日、860名のワロン人義勇兵が所属する部隊はブリュッセル北駅(Gare de Nord)から列車に乗り込み、基礎訓練のために東へ向かった。8月12日にはメゼリッツ(Meseritz、現ミエンジジェチMiędzyrzecz)に到着し、8月22日にはドイツ国防軍司令官としてのアドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う宣誓式を執り行った(ちなみに、28日にはデグレル個人に対して忠誠を誓う宣誓式が執り行われた)。この時期のワロン人部隊の編制は次の通り。 ワロニー部隊(Légion Wallonie) 1941年8月~12月 大隊指揮官 ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Capt-Cdt. Georges Jacobs) 参謀 リュシアン・リッペール少尉(Lt. Lucien Lippert) 各種医療部隊、カトリック従軍司祭、ドイツ人連絡将校 第1中隊 アルベール・ヴァン・ダム上級大尉(Capt-Cdt. Albert Van Damme) 第2中隊 ウィリィ・エヴェール大尉(Hptm. Willy Heyvaert) 第3中隊 ゲオルゲス・チェーホフ大尉(Hptm. Georges Tchekhoff) 第4中隊 ルネ・デュプレ大尉(Hptm. René Duprés) 1941年10月初旬、一通りの訓練を完了したワロン人義勇兵部隊は「第373ワロン歩兵大隊」(Wallonische Infanteriebataillon 373)としてドイツ陸軍に加わり、ウクライナで作戦行動中の南方軍集団(Heeresgruppe Süd)の所属となった。10月15日の時点で16名の将校と776名の下士官・兵が所属していた大隊は東進し、11月2日にドニエプロペトロフスク(Dniepropetrovsk)に結集した。
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