ソビエト侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 15:22 UTC 版)
「ハンス・フォン・ルック」の記事における「ソビエト侵攻」の解説
1941年6月22日、ソビエト連邦への侵攻が始まった。大尉に昇進したルックは師団本部付となり、また師団は中央軍集団所属の第3装甲集団に配置された。 第3装甲集団はミンスクへを目指す進撃の中で、リトアニアの首都ヴィリニュスを占領する。このヴィリニュスを巡る戦いの際、副官と共にメルセデスのカブリオレに乗車し前線の森林を視察していたルックは偶然にもロシア兵の大集団を搭載したトラックと遭遇した。ルックと副官は果敢にもロシア兵の集団へと発砲して銃撃戦を演じ、命辛々に逃れたという 。ミンスクを占領した後、第7装甲師団はヴィテプスクを目指して東方への進撃を再開した。ヴィテプスク攻略が完了した頃、ルックは戦死した大隊長の後任として再び装甲偵察大隊の大隊長に任命された。 7月26日、スモレンスクの包囲が完了し、ルックの大隊もスモレンスク=モスクワ間の封鎖に当たっていた。やがてモスクワへ向けて前進を開始すると無数のT-34中戦車やT-50歩兵戦車を含む赤軍の激しい抵抗に遭遇した。これらの戦車は、偵察大隊が保有する3.7cm砲では貫通を許さず、88mm高射砲によってのみ撃破する事が可能なものばかりだった。さらに補給線が延び切ったことも重なり、大隊は徐々に撤退を強いられていった。 10月末までには激しい降雪と気温の低下の為、東部戦線のドイツ軍は停滞を余儀なくされた。続く11月中もわずかな前進に止まったが、第7装甲師団では一時的に師団を離れたルックの大隊がモスクワ郊外からそう遠くないカリーニンの市街に侵入し、南部に橋頭堡を確保することに成功した。 12月3日、ルックの大隊は橋頭堡からクリン東部へ向けた師団の撤退援護を命じられた。撤退行は非常に高い雪山に隔てられた2本の道路に沿って行われたが、これは一切の機動が阻まれる事を意味していた。ルックが率いた後衛部隊を含む師団の各部隊では空軍部隊が西方に撤退する折に遺棄したままだった高射砲を一定数確保していたので、敗走する隊列を発見して攻撃を行った赤軍航空隊が大損害を被った一方、師団は深刻な被害を受けることなく撤退することに成功した。 最終的に全ドイツ軍部隊はモスクワより100kmの地点まで撤退を強いられた。 1942年2月2日にルックはドイツ十字章金章を受章し 、ロンメルからの要請を受けて北アフリカ戦線への転属を命じられた。
※この「ソビエト侵攻」の解説は、「ハンス・フォン・ルック」の解説の一部です。
「ソビエト侵攻」を含む「ハンス・フォン・ルック」の記事については、「ハンス・フォン・ルック」の概要を参照ください。
ソビエト侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 17:16 UTC 版)
ソビエト侵攻の際、師団はヴォック元帥の中央軍集団のグデーリアン上級大将指揮下の第2装甲集団に所属する第46軍団(自動車化)の一員として、参加した。ビヤリストック包囲戦、ミンスク包囲戦に参加し、スモレンスク包囲戦、その後のスモレンスク近傍のエリニャの戦い(エリニャ攻勢)や、キエフ包囲戦にも参加した。その後、所属する第2装甲集団(後に第2装甲軍に昇格)は再度東進し泥濘に苦しみながらもオリョルを経由しブリヤンスク・ウィヤジマ複合包囲戦にも参加した。その後、レニングラード攻撃を中止して鉄道輸送されたヘープナー上級大将の第4装甲軍第40軍団に所属し、モスクワ攻略作戦であるタイフーン作戦に参加した。クリン南方からイストラを経て1941年11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、カンプフグルッペ・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは1942年6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、トゥーロンで、フランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒと改名された。 1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。 続く戦闘により連隊規模まで消耗した為、カンプフグルッペ ダス・ライヒ(Kampfgruppe SS-Panzerdivision Das Reich)又はカンプフグルッペ ラマーディング(KG Lammerding)と呼ばれた。1944年2月に一部を東部戦線に残し師団は前線から引き抜かれフランスの南部の村モントーバンで装備と人員の補充を受け再編成が行われた。残った部隊はカンプフグルッペ ダス・ライヒ又はカンプフグルッペ ヴァイディンガー(KG Weidinger)と呼ばれた。 3月、ソ連軍の春期攻勢によりカメネツ・ポドルスキーで包囲され第2SS装甲軍団がこれを救出した。救出されたヴァイディンガー戦闘団は既にフランスにいる師団の残りと合流するためにフランスに送られた。
※この「ソビエト侵攻」の解説は、「第2SS装甲師団」の解説の一部です。
「ソビエト侵攻」を含む「第2SS装甲師団」の記事については、「第2SS装甲師団」の概要を参照ください。
- ソビエト侵攻のページへのリンク