ソビエトの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:52 UTC 版)
「大粛清」、「スペイン内戦」、および「ノモンハン事件」も参照 1930年代を通じて、ソ連はヨシフ・スターリンの指導のもとで、大きな工業化と経済成長を成し遂げた。スターリンの中心的な主義である「一国社会主義論」は、1929年以降のソ連の五カ年計画に組み込まれた。これはソ連の政策のイデオロギーが、国際的な共産主義革命(世界革命論)の方向から離れて、最終的には1943年のコミンテルン(第三インターナショナル)解散へとつながっていく方向へ転換したことを示していた。ソ連は公式に1928年から始まった第一次五か年計画で軍事力強化の過程を開始した。軍事力強化は1930年代中頃の第二次五か年計画の終わりまでとされものの、軍事力はソ連の工業化の重要な焦点となった。 1936年2月のスペイン総選挙の結果、スペイン第二共和政の人民戦線政権に多くの共産主義指導者たちが加わることとなったが、数か月も経ずして右翼の軍事クーデターが発端となりスペイン内戦 (1936~1939年) が始まった。この紛争はすぐに社会主義者・共産主義者たちが率いるスペイン第二共和国の側に立つソ連や様々な国からの左翼の志願兵たち、そしてスペインの国家主義者たち(フランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍)の側に立つナチス・ドイツ 、ファシスト政権のイタリア、ポルトガルを巻き込んだ代理戦争の性質を帯び始めた。この戦争は、ドイツ軍と赤軍にとって、新しい装備や戦術を試すための有用な試験場となった。両者ともそれを後の第二次世界大戦でより大規模に実行することになった。 ナチス・ドイツは反共主義の政権であり、そのイデオロギー的な立場を、1936年11月25日に署名された日本との防共協定において正式な国の政策とした。一年後、ファシスト政権のイタリアも防共協定に加わった。ソ連はドイツの拡大を包囲する狙いで、仏ソ相互援助条約をフランスやチェコスロバキアと議論した。1938年のドイツによる「アンシュルス」(オーストリア併合)とチェコスロバキア解体 (1938~1939) により、かねてマクシム・リトヴィノフの下でソ連外務省が主唱していた欧州の集団的自衛体制を確立することは不可能であることが示されてしまった。このことと、イギリス・フランス政府が全面的に対ドイツの全面的な政治的・軍事的同盟をソ連と結ぶことに前向きとなったこともあって、1939年8月末頃の独ソ不可侵条約につながった。これとは別に、枢軸国を構成することになる主要三国が日独伊三国同盟を締結するのは防共協定が締結されてから約4年後のこととなる。
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