ソビエトの恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:07 UTC 版)
ソビエトは圧制に加えて大規模な国外追放を実施した。イワン・セーロフ将軍が署名した「エストニア、ラトビアおよびリトアニアから反ソビエト分子をロシアに追放する手続き」(セーロフ文書) はバルト三国の人々の国外追放を監督するための手順と規約の詳細な説明を含んでいる。 赤軍による制圧直後から、地元の共産主義支援者およびロシアから入った者達の指導で、三国全ての大統領と政府の辞任が強制され、彼らのかわりに完全に共産主義者からなる「人民の政府」に変えられた。これらの作業を監督・指導するため、スターリンの側近のうち、アンドレイ・ジダーノフがエストニアへ、アンドレイ・ヴィシンスキーがラトビアへ、ウラジーミル・デカノゾフがリトアニアへそれぞれ派遣された。 翌7月にはソ連に忠実な地元の共産主義者によって仕組まれた議会選挙を実施。共産主義者と彼らの同盟者のみ参加が認められた。選挙結果は完全な捏造で、ソビエト報道部は投票の終了する24時間以上前にロンドン紙にその結果を付けて選挙を取り上げている。選挙の結果、バルト三国全ての議会で共産主義者が多数派となり、全く寝耳に水の話に対する人々の抗議を押し切って、8月には彼ら全員でソ連への併合を求める動議を提出した。いずれの国でもその動議が可決される。ソ連は予定通り三つの嘆願書全部を「受け入れ」、正式にバルト三国を併合する。 共産党に投票してパスポートに検印を押してもらうことが出来なかった人々は、後頭部を撃たれた。公共の裁判所も、「人民に対する反逆者」、つまり「政治的義務」であった彼らの国をソ連に入れる投票ができなかった人々を罰するために設立された。 選挙直後、イワン・セーロフ指揮下のNKVD部隊は1万5千人以上の「敵対的分子」とかれらの家族を逮捕している。ソビエト占領の最初の年、つまり1940年6月から1941年6月までの間における確認された処刑、徴兵あるいは国外追放された数は少なくとも12万4千467人と推定され、内訳はエストニアで5万9千732人、ラトビアで3万4千250人、リトアニアで3万485人である。これにはエストニアの8人の前国家元首と38人の大臣、ラトビアの3人の前国家元首と15人の大臣、リトアニアの大統領、5人の首相と24人の他の大臣が含まれる。最後の大規模な作業が1941年6月27日から28日の夜に予定されていた。それは1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻したバルバロッサ作戦が行われた時に戦後まで延期される。歴史家ロバート・コンクエストによれば、バルト三国からの選択されての国外追放は、「カティンの森事件の動機として後には明らかだったように」、政治的および社会的エリートを除くことによる国の「指導層の除去」という政策の典型である。 この時期、リトアニアのカウナスには日本領事館領事代理として杉原千畝が駐在していた。ソ連からはリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告が伝えられ、杉原はソ連政府と日本政府からの再三の退去命令を受けながらも、ドイツのユダヤ人に対する迫害政策から逃れようとしてドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に対し、1940年7月から彼自身がリトアニアを離れる同年9月にかけて大量のビザを発給している。(参照:杉原千畝#「命のビザ」) 1940年の7月から8月、エストニア、ラトビア、リトアニアの使節は、アメリカとイギリスに対し、ソビエトによる彼らの国々の占領と併合について正式に抗議を行った。アメリカはスチムソン・ドクトリンの原則に沿い(サムナー・ウェルズの1940年7月23日の宣言)、他のほとんどの西側諸国と同様、併合を決して正式に承認しなかったが、ソビエトの統治に直接的な干渉を行わなかった。バルト三国は国際法に基づいて法的(デ・ジュリ)に存在を続けた。バルト三国の外交および領事の代表は1940年から1991年の間いくつかの西欧諸国(アメリカ、オーストラリア、スイス)でその役目を果している。バルト三国が独立を回復するまでの1940年から1991年までの期間、西欧諸国においてエストニア、ラトビア、リトアニアの外交担当者は、それぞれの国の正式な意見をまとめ、発表することを継続し、各国の利権と各国の市民を保護した。 バルト三国の事件は単独のものではなかった。独ソ両国はフィンランドとスカンディナヴィア半島にその中立あるいは主権を侵害する居留地を要求した。ドイツはノルウェーでの戦闘中、スウェーデンに圧力をかけてノルウェーと南スウェーデンの港との間で物資と人を輸送する権利を認めさせようとし、これはノルウェーの敗退後に達成される。その直後、ソ連はフィンランドに圧力をかけハンコ海軍基地とソ連国境間の輸送の権利を要求し始め、ペツァモ(Petsamo、現ロシア領ペチェングスキー地区)のニッケル鉱山の支配権とともにモスクワ平和条約の中のフィンランドの譲歩として達成された。 8月、フィンランドは1930年代半ばからのイデオロギーの違いに起因してナチス・ドイツとは冷めた関係だったが、ソ連との冬戦争によってナチス・ドイツ側とはっきり示され、ドイツとの関係を発展させる外交努力の中でドイツ軍の部隊に北ノルウェーとボスニア湾の港との往来の権利を認めた。フィンランドはソビエト占領に対抗する唯一の望みに見られるようになったドイツとの政治的な接触を続けている。9月、フィンランドとソ連は、ハンコを経由地として使用することについて合意した。1940年11月、ソビエト外務人民委員(ヴャチェスラフ・モロトフ)はフィンランド侵略のためドイツに承認と消極的支援を求めが、ヒトラーはフィンランドは近づくソ連への侵攻における潜在的な同盟国と見ていたため断っている。間接的なドイツの支援がフィンランドに交渉の終了を許すまではペツァモ鉱山についての交渉は数カ月の間進展がなかった。
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