ソビエトの蟹工船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:22 UTC 版)
ソビエトにおける蟹工船は漁業コルホーズの一つだった。 1928年2月にドゥドニク、アレクサンドル・イグナチエビッチが大阪に来て日本の船「大洋丸」を35万ルーブルで買い取り第一蟹工船«Первый краболов»と命名されソビエトで初めての蟹工船になった。第二次大戦後にアレクサンドロフ・アキモビッチ・イシュコフ水産大臣が主導して大型カニ缶工場(Большая крабо-рыбоконсервная плавбаза)という船の建造計画を立ち上げ、1971年12月30日に世界最大の蟹工船であるボストーク(Р-743Д Восток)が完成した。ボストークは排水量:32,096トン、全長:179.2m、乗組員:600人、14隻の小型漁船と2機のヘリコプターを運用でき、カニ缶詰を1日25万缶生産できる能力を持っていた。この船はウラジオストックを母港として日本の蟹工船の漁場と隣接するソビエトの領海で操業していた、2022年現在は船名をブシェボロド・シビルツェフ(Всеволод Сибирцев)に改名してサンマ工船として活動している。 ソビエトでは蟹工船と同様のニシン、タラ、キャビアなどの缶詰を製造する工船も建造して運用している。ソビエトでは農業生産と牧畜生産に失敗して食糧難になっていた時代でも水産資源の生産には比較的余裕があったため魚を食べることが推奨され内陸部まで運べる魚の缶詰の生産が推奨され輸出商品としても価値の高い蟹缶詰を生産する蟹工船への期待は非常に大きく、蟹工船の成功はイシュコフ水産大臣が長期間にわたって権力を維持する原動力になっていた。このため、蟹工船の労働者の中には共産党から表彰された人物も多くアレクサンドル・イグナチエビッチのようにレーニン勲章を授与された船長もいる。皮肉にもソビエトで優れたプロレタリアートとして共産党から表彰された人々は日本の文学の中で悪として描かれた労働者を虐待して過酷な労働を強いてノルマを達成させた監督側の人々だった。 バルト海でニシン、タラ工船として活動した船は東ドイツのロストックにあるネプチューン造船所で建造され1945〜55年の戦後復興期にソビエトからの投資により東ドイツの造船業を6倍以上の規模に急成長させている。
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