ソビエトの侵略
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バルト三国に対してあり得る軍事行動のため配置された赤軍部隊には43万5千人の兵員、約8千の大砲と迫撃砲、3千台以上の戦車、500台以上の装甲車があった。 1940年6月3日、バルト三国を拠点とする全ての赤軍はアレクサンドル・ロクティオノフ (Aleksandr Loktionov) の指揮下に統合されていた。 6月9日、命令02622ss/ovがセミョーン・チモシェンコにより赤軍のレニングラード軍管区に出され、6月12日までに準備されることとして次のことが求められた。a) エストニア、ラトビアおよびリトアニア海軍の船舶の基地と海上のいずれかあるいは両方における捕捉、b) エストニアとラトビアの商船艦隊と他の船舶の捕捉、c) タリンとパルティスキへの侵攻と上陸に対する準備、d) リガ湾閉鎖とフィンランド湾とバルト海のエストニアとラトビアの沿岸の封鎖、e) エストニアとラトビアの政府、軍隊および資産の避難の阻止、f) ラクヴェレへの侵攻に対する海軍による支援の手配、g) エストニアとラトビアの航空機のフィンランドあるいはスウェーデンへの飛行の阻止 1940年6月12日、エストニアの完全な軍事封鎖の命令がソビエトのバルチック艦隊に出される(海軍部ロシア国立公文書館の責任者である歴史学者パーヴェル・ペトロフ (Pavel Petrov) 博士による文書記録の参照より)。 6月13日午前10時40分、赤軍が決められた位置に移動を開始、6月14日午後10時までに終了している。a) 4隻の潜水艦と海軍の何隻かの小型艦艇がバルト海で所定の位置に着いた。b) 駆逐艦隊3を含む小艦隊が侵攻を支援する為ナイッサール島の西に位置した。c) 第一海兵旅団の4大隊が乗船した輸送船「シビル」 (Sibir)、「第二ピャティレトカ」 (2nd Pjatiletka) および「エルトン」 (Elton) はナイッサール島とアエグナ島への上陸と侵攻のための位置に着いた。d) 輸送船「ドニエステル」 (Dnester) と駆逐艦「ストロゼヴォイ」 (Storozevoi) と「シルノイ」 (Silnoi) は首都タリン侵攻のため数個の部隊を乗艦させて位置に着いた。e) 第50大隊はクンダ (Kunda) 近くに侵攻するための艦艇の中に位置した。海軍封鎖には全部でソビエト船舶が120隻参加している。それには1隻の巡洋艦、7隻の駆逐艦、17隻の潜水艦が含まれていた。参加した航空機は219機であり、これにはイリユーシンDB-3 (DB-3) 型とツポレフSB型の両爆撃機計84機を持った第8航空旅団と62機の航空機を持った第10旅団が含まれていた。 1940年6月14日、世界の注目がナチス・ドイツによるパリ陥落に集中している間にソビエトによるエストニアの軍事封鎖が実施された。タリン、リガ、ヘルシンキに置かれたアメリカ公使館からの3つの外交文書の包みを運んでいたタリン発ヘルシンキ行のフィンランド旅客機「カレヴァ (Kaleva)」は2機のソ連爆撃機に撃墜されている。アメリカの外務部事務員ヘンリー・W・アンタイル・ジュニア (Henry W. Antheil, Jr.) はその墜落によって死亡した。 6月15日、赤軍はリトアニアに侵攻し、マスレンキ (Masļenki) でラトビア国境守備隊を攻撃する。 1940年6月16日、赤軍はエストニアとラトビアに侵攻する。侵攻時に出版されたタイム誌の記事によると、ほんの数日の間に約50万人の赤軍部隊がバルト三国を占領し、それはナチス・ドイツにフランスが降伏するちょうど1週間前のことである。 モロトフはバルト三国のソ連に対する陰謀を非難し、ソビエトが承認する政府の設立を求める最後通告をバルト三国に渡した。侵攻をにおわせ、さらに三国がソ連に対する陰謀を企てることで、もともとの条約に違反したとして告発し、モスクワは最後通告を出している。それはバルト諸国に新しい譲歩を求め、その中には各政府の交代と三国に軍隊がいくらでも入ることを認めさせることが含まれていた。数十万の赤軍が国境を越えてエストニア、ラトビア、リトアニアに入った。この追加された赤軍は各国の軍隊よりかなり多かった。 国際的に孤立し、圧倒的な赤軍が国境と国内の両方にいる状態の中で、バルト三国の政府は積極的な抵抗を行わず、勝ち目のない戦争における流血を避けることが彼らの利益であると決定する。バルト三国の占領は赤軍の支援を得た共産主義者によって各国に起こされたクーデターによって達成された。 エストニア国防軍とエストニア防衛連盟の大部分は抵抗が無益であると信じるエストニア政府の命令に従い降伏し、赤軍に武装解除された。1940年6月21日、タリンのラウア (Raua) 通りに駐屯していたエストニア通信大隊のみが赤軍および「人民の自衛」と呼ばれる共産民兵に抵抗を示している。赤軍が6台の装甲戦闘車両を含めた増援をつぎ込み、闘いは日没までの数時間続いた。結局軍事的抵抗は交渉で終了し、通信大隊は降伏し、武装解除される。エストニア軍人アレクセイ・ミャンニクス (Aleksei Männikus) とヨハンネス・マンドレ (Johannes Mandre) の2人が死亡、エストニア側の負傷者は数人、ソビエト側では約10名が死亡し、それ以上の負傷者が出ている。戦いに参加したソビエト民兵は、ニコライ・ステプロフ (Nikolai Stepulov) に率いられていた。
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