ソビエト将兵元捕虜に対するソビエト連邦の仕打ち
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「ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為」の記事における「ソビエト将兵元捕虜に対するソビエト連邦の仕打ち」の解説
ドイツ軍の収容所より生きて出ることができたソビエト捕虜はナチスの為に働いたとしてソビエト当局に非難されるか、あるいは自発的な降伏を禁止した指令第279号の元に、反逆者のレッテルを貼られることになったという陳述がある。 第二次世界大戦中もしくは戦後、解放された捕虜は特別な「濾過」収容所に送られたが、彼等の内、90%以上が死亡、約8%が拘束され、懲罰大隊への所属を余儀なくされた。1944年、彼等は内務人民委員部(NKVD)により、粛清されるため、直接予備部隊へ配属された。さらに1945年、ソビエトへ送還された東方労働者(Ostarbeiter)、元捕虜、強制追放者ら4000,000名以上が調査され、約100もの濾過収容所に収容された。1946年までに市民の80%、元捕虜の20%が解放され、5%の市民、43%の元捕虜が再徴兵された、そして10%の市民と22%の元捕虜が労働大隊に送られ、市民の2%と元捕虜の15%(全元捕虜1,539,475名の内、226,127名)がNKVDにより強制労働収容所へ収容された。 ロシアの歴史家G・F・Krivosheevは、ソ連国家保安委員会(KGB)の文書から異なる数字を導きだしている。233,000名が敵へ協力したことにより有罪とされ、収容所から解放された1,836,562名のソビエト兵士は強制労働収容所へ送られた。ただし、2つ目のデータはソビエト本国へ送還された(強制も含む)何百万の民間人は含んでいないが、彼等は強制労働収容所へ送られたか、処刑されるかした。 また、「共産主義黒書」ではさらに異なる数字を提示している。19.1%の元捕虜は懲罰大隊に送られ、14.5%は強制労働を行う「復興大隊(通常は2年間)」送られた。そして8%(360,000名)は矯正労働収容所での労働10年から20年を宣告されたとする。生存者は1953年のスターリンの死により行われたニキータ・フルシチョフによるスターリン批判以降の非スターリニズム化のさなかである1955年、すべての元捕虜及びナチスの協力者とされていた人々は恩赦を受け、解放された。 ルドルフ=ディーター・ミュラー(Rolf-Dieter Müller)とGerd R. Ueberschärによれば、「ソビエトの歴史家は捕虜問題に関する分野においては偽の情報を出すことに従事していた」と主張し、さらに彼等は解放され、帰国した捕虜のほとんどが反逆罪により有罪判決を受け、各種の強制労働を宣告されていると主張している。しかし、他の学者は信頼できる筋より入手した非機密扱いのソビエト公文書のデータを認めている。 何千ものソビエト捕虜は協力することにより生き残り、そして彼等の多くが武装親衛隊を含むドイツ軍へ加わった。さらにナチスとの戦いで称賛された英雄でさえ、スターリンの偏執病を払拭させることができず、抑圧される対象であった。例えばソルボル強制収容所で反乱に成功し、さらに戦闘で負傷し勲章を与えられたアレクサンドル・ペチェルスキーは赤軍に再合流した後、強制労働収容所に収監された。
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