ソ連先制攻撃論
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1990年代以降「スターリンがドイツを出し抜き先制攻撃を行おうとしていた」とする説が、ロシアの作家スヴォーロフの歴史小説『砕氷船』『Mデー』において提起され、論争となっている。だが実際には、旧ポーランド国境を重視する防衛戦略を唱えるジューコフらが重用されていたこと、独ソ国境付近には精鋭部隊や最新のT-34、重砲類も配備されておらずトラクターやトラックも少なく、逆にこうした装備は旧ポーランド国境付近に重点的に配備されていたこと、ドイツへの「挑発」を恐れたスターリンの命令などを考えれば、この説には無理がある。また、確かにジューコフとチモシェンコが先制攻撃案を作成して、1941年5月15日にスターリンに提案して却下されたのは事実のようであるが、これもドイツ軍の国境地帯への移動を確認し、ソビエト侵攻が必至と判断したからであって、ドイツの右派が唱えるような、「ソ連が先制攻撃しようとしたからドイツは自己防衛のため先手を打った」という性質のものとはならない(そもそも、ドイツ側は開戦に際してそのようなコメントもしていない)。しかしながら、当時は赤軍とスターリンの関係が悪化していて、政府の思惑外で軍が動く可能性も少なくとも政府内の考えでは存在した。こうした情勢は侵攻初期の「これはヒットラーの命令ではなく将軍の独断である。ベルリンに回線を繋げ」とのジューコフを震撼させたスターリンの発言にも見て取れる。
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