ソビエト連邦との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:17 UTC 版)
「国内軍 (ポーランド)」の記事における「ソビエト連邦との関係」の解説
国内軍とソビエトとの関係は完全に悪化の道をたどっていた。ソビエト連邦は1939年にドイツと一緒にポーランドに侵攻したのみでなく、ドイツのソビエト侵攻後は、ソビエトは亡命政府に忠実なポーランド抵抗運動を潜在的な同盟相手ではなく、戦後のポーランド支配の計画における敵とみなしていた。1943年6月22日のモスクワからの指令では、ソビエトのパルチザンはポーランドのパルチザン相手に戦闘を起こすように指示され、実際、彼らはドイツ軍に対してより頻繁にポーランド人を攻撃した。同様にソ連軍とソ連秘密警察は、「嵐」作戦の間もしくはその直後に、国内軍に対する作戦を行なった。この「嵐」作戦は、ポーランドがソビエト軍と共同で撤退するドイツ軍に対して計画した武装蜂起で、ポーランドが自分の領土に対して領有権を主張するために起こしたものであった。しかし、「嵐」作戦の考えの様な戦後独立したポーランドが再度登場しないことを確実にするというスターリンの目標は、最初から決まったものであった。 1943年終わり、国内軍を排除するように指示を受けたソビエトパルチザンの行動は、国内軍とドイツ軍の一部の部隊間の不安定で限定的な協調を作り出した。国内軍はドイツを敵とみなしドイツに対する様々な作戦を行なっていた一方で、ドイツ軍はソビエト軍に対抗するために国内軍に武器と物資を提供することを提案し、ノヴォグルデクとヴィルノの一部のポーランドの部隊はその申し出を受け入れた。しかし、その様な手配は単に戦術的なもので、フランスのヴィシー政権やノルウェーのクヴィスリング政権 や近くにあったウクライナの国家主義組織のようなイデオロギー的な結びつきではなかった。ポーランド人の主な動機は、ドイツ軍の士気や装備の情報を得て、必要な武器を入手することであった。ポーランドとドイツの共同作戦に関しては知られていない。ドイツ軍はポーランド人をソビエトのパルチザンのみを相手に戦わせることに失敗した。そうであるため、その様な局所的なドイツ軍との協調のほとんどは国内軍の総司令部により無効であるとされた。 タデウシュ・ピョトロフスキはヨーゼフ・ロートシルトの言葉を引用して言った。「ポーランドの国内軍は全体的に協力により汚点は生じていない。」更に加えて「全体としての国内軍の誇りは非難されるものではない。」 1944年、東部戦線の前線がポーランド領内に入ると、国内軍はソビエトとの間の確信性の低い約束を果たした。国内軍はソビエト軍部隊の偵察を助け、暴動を組織し、都市の解放に協力した(例えば「夜明けの門」作戦)。それらの後、国内軍の部隊は拘束され、投獄され、処刑された。
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