ソビエト連邦にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 21:36 UTC 版)
「マンフレート・フォン・アルデンヌ」の記事における「ソビエト連邦にて」の解説
フォン・アルデンヌ、グスタフ・ヘルツ(ノーベル賞受賞者、シーメンスの第2研究所所長)、Peter Adolf Thiessen(フンボルト大学ベルリン教授、Kaiser-Wilhelm Institut für physikalische Chemie und Elektrochemie (KWIPC) 所長)、Max Volmer(ベルリン工科大学の物理化学研究所の所長兼教授)は、ある協定を結んだ。それは、その中の誰かがロシア側から接触を受けたら残りの人に隠さずに知らせるというものだった。この協定の目的は3つある。第一に各研究所での略奪を防止すること、第二に割り込みを最小化して研究を続行できるようにすること、第三に過去の政治的行為によって訴えられることから自らを守ること、である。しかし実は、国家社会主義ドイツ労働者党の党員だったThiessenは、第二次世界大戦が終結する前から共産主義者からのコンタクトを受けていた。1945年4月27日、Thiessenはソ連軍の軍人と共に装甲車でフォン・アルデンヌの研究所を訪れた。実はその軍人も化学者であり、アルデンヌへの手紙 (Schutzbrief) を携えていた。 協定メンバー4人は全員ソビエト連邦に連行された。フォン・アルデンヌは、スフミ近郊のSinopにある Institute A の所長に任命された。ラヴレンチー・ベリヤとの最初の会合で、フォン・アルデンヌはソ連の原爆開発プロジェクトへの参加を打診された。しかしアルデンヌはそのプロジェクトに参加するとドイツに帰れなくなることに気づき、逆に同位体圧縮の研究を進めることを提案し、承認された。 アルデンヌの Institute A の目標は次のように設定された。 同位体の電磁的分離(リーダー: アルデンヌ) 同位体分離のための多孔性隔膜製造技術の研究(リーダー: Peter Adolf Thiessen) ウラン同位体の分離のための分子技術の研究(リーダー: Max Steenbeck) Steenbeck はシーメンスでのヘルツの同僚だった。 Institute A には他に Ingrid Schilling、Alfred Schimohr、Gerhard Siewert、Ludwig Ziehl らがいた。1940年代末には300人近いドイツ人がその研究所で働いていた。もちろん、ドイツ人だけが働いていたわけではない。 ヘルツはスフミの10km南西の Agudseri (Agudzery) にある Institute G の所長に任命された。1950年以降、ヘルツはモスクワに移されている。Volmerはモスクワの Nauchno-Issledovatel’skij Institut-9 (NII-9, Scientific Research Institute No. 9) に連行され、重水製造に関する設計局を任された。 当局の示唆により、アルデンヌは後に同位体分離から原子核融合制御に向けたプラズマの研究に移行した。 1947年、アルデンヌは卓上電子顕微鏡の開発に対してソビエト連邦国家賞を授与された。1953年、ドイツに戻る前に再びソビエト連邦国家賞を授与された(原爆開発プロジェクトへの貢献に対して)。賞金の10万ルーブルは、東ドイツで新たに私立研究所を設立する際の土地購入資金となった。ソビエト連邦に来た当初の当局との合意で、アルデンヌの研究所からソビエト連邦に運び込まれた研究設備は、ソビエト連邦への賠償の一部とは見なされないことになっていた。そのため、1954年にドイツに戻る際に、アルデンヌはそれら研究設備を持ち帰った。
※この「ソビエト連邦にて」の解説は、「マンフレート・フォン・アルデンヌ」の解説の一部です。
「ソビエト連邦にて」を含む「マンフレート・フォン・アルデンヌ」の記事については、「マンフレート・フォン・アルデンヌ」の概要を参照ください。
- ソビエト連邦にてのページへのリンク