ソビエト連邦と同選手団の解体
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「オリンピックのソビエト連邦選手団」の記事における「ソビエト連邦と同選手団の解体」の解説
1990年以降、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国を皮切りにソビエト連邦加盟国の間で連邦からの離脱を目指す動きが拡大し、1991年12月25日にミハイル・ゴルバチョフがソ連大統領の辞職を宣言して連邦の崩壊が確定すると、スポーツ界もその対応に迫られた。リトアニアとラトビアは1990年に既に独立宣言を行い、エストニアと共に独立したNOCが既にIOCから承認されていたため、1992年に予定されていた冬季の1992年アルベールビルオリンピックと夏季の1992年バルセロナオリンピックには各国独自の選手団を送る事になっていたが、独立国家共同体(CIS)を形成したロシア連邦・ウクライナなどの旧連邦11ヶ国は国内オリンピック委員会のIOC加盟が間に合わなかった。 そのため、当時はCISに不参加だったグルジア(現在のジョージア)を含む12ヶ国は、アルベールビル大会後の1992年5月12日まで存続したソ連オリンピック委員会、及び独立した各国のオリンピック委員会の協議によって代表選考が行われ、「統一チーム」として両大会限定で参加する事になった。同チームにはCIS不参加のグルジアが含まれていたため、「統一チーム」のフランス語略称でIOCコードでも使用された「EUN」という名称が使われる事になった。続く1994年冬季の1994年リレハンメルオリンピックからは、帝政時代以来の復活で冬季大会は初参加となるロシア選手団をはじめ、カザフスタン選手団・ウクライナ選手団・ウズベキスタン選手団・ベラルーシ選手団など12カ国がそれぞれの選手団を派遣する事になった。
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