ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻と内戦
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「グルブッディーン・ヘクマティヤール」の記事における「ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻と内戦」の解説
ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻の間、ISI (パキスタン統合情報局) からの軍事援助と、チャールズ・ウィルソンらの工作によるCIAによるISIを経由したムジャーヒディーンへの援助として、ヘクマティヤールは数百万ドルの資金を受け取った。 ISIがヘクマティヤールに秘密資金の多くを割り当てたのは、おそらく、アフガニスタンでの反ソ連戦における軍事司令官としての彼の戦績に基づいた決定であった。どの軍事司令官にどう資金を割り当てるかについては、CIAが公式には関与していなかった、ということは明記しておくべきであろう。資金や武器を誰に提供するかは、ISIが決定する事項であった。しかしながら、反ソ連戦におけるムジャーヒディーンの勝利が見えてくるようになると、ISI内部のイスラム原理主義派には、ソ連撤退後のアフガニスタンの新指導者として、同じ原理主義者のヘクマティヤールを擁立しようという気運が急速に高まった。 ソ連の侵攻中にも、ソ連撤退後の勢力争いにおいて自派を有利に導くため他派の力を削ごうと、ヘクマティヤールは国内のライバル勢力に対して盛んに攻撃を指揮した。ライバル勢力への容赦ない攻撃の例として、1976年、パキスタン国内でのアフマド・シャー・マスードのスパイ容疑による逮捕の画策に関与したことが挙げられる。 ヒズビ・イスラーミー (ヘクマティヤール派)はイスラーム主義を信奉している。また、過去に何度と無く、アフガニスタン国内のおよそすべての勢力と争ったり結んだりを繰り返している。ヒズビ・イスラーミーはパキスタンとサウジアラビアからもっとも強力な支援を受けたグループの1つで、何千人もの国外からのムジャーヒディーンを迎え入れた。この件についてのヘクマティヤールが果たした役割とターリバーンの登場については、ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2001年10月の詳細な報告がある。 アフガニスタン・イスラム国の崩壊後、ヘクマティヤールは1992年5月25日にマスードとの和平合意に調印し、それによって首相に就任した。しかし、ムジャッディディー大統領の乗った飛行機を、ヘクマティヤールがロケット攻撃したことが非難されて、合意は破れた。翌日、ラッバーニーとマスードの属するイスラム協会と、ドスタム将軍派のイスラム民族運動は、反ヘクマティヤール派の軍事同盟を結んだ。しかし、1994年にヘクマティヤールは同盟関係を変更し、イスラム民族運動、ハザーラ人主体のシーア派勢力イスラム統一党と同盟を結んだ。そして三派の同盟はカーブルを包囲し、アフガニスタンの崩壊を食い止めるために、ラッバーニー派と戦闘を行なった。 1992年から1996年のアフガニスタン内戦の間に、このような戦闘によってカーブル市街の70パーセントが破壊され、少なくとも50,000人が死亡した。その多くが民間人である。ラッバーニーとヘクマティヤールは、1996年9月にターリバーンがカーブルに入城するほんの数ヶ月前、ようやく和平を結びヘクマティヤールは首相に就いたが、彼らがもたらした荒廃と分裂のために、易々とターリバーンによる制圧を許すことになった。ヘクマティヤールはイランに亡命し、同地でイスラム党の活動を継続した。
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