ベトナム軍介入と中越戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 02:12 UTC 版)
「カンボジア内戦」の記事における「ベトナム軍介入と中越戦争」の解説
「カンボジア・ベトナム戦争」および「中越戦争」も参照 1978年1月から、ポル・ポトはベトナム領内の農村でベトナム人の大量虐殺を行い(バチュク村の虐殺)、ベトナムと断交した。米中国交回復以後、ベトナム社会主義人民共和国はソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権との対立が深まった。 1978年5月、ポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュ幹部・兵士らが、南西軍管区のポル・ポト派から攻撃を受け、内戦に陥った(五月決起)。その結果東部軍管区の将兵が大量処刑され、ベトナム領内には十数万人の東部地区軍民が難民として流れ込んだ。ベトナムは、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) として組織し、ヘン・サムリンを首相に擁立して打倒ポル・ポトを掲げ、KNUFNSを先頭に立て民主カンプチア領内へ侵攻した。 1979年1月、ベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊、ベトナム軍はポル・ポト一派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。そして親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立されたが、ベトナム軍は山林に隠れたポル・ポトを捕えられず、ポル・ポト派はタイ領を避難場所としてベトナム軍を攻撃し続けた。 翌2月には中華人民共和国の中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。中越戦争に投入されたのは北部出身の将兵であった一方、カンボジアに侵攻したベトナム軍は、旧ベトコンと旧政府軍からなる南部の兵士が主力となった。しかし、戦争に慣れ、士気・錬度が高く、ソ連から軍事援助も供与されていたベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。 1982年2月、巻き返しを図るクメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の反ベトナム三派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム三派は「民主カンプチア連合政府(en)」を設立、カンボジアは完全に二分された。国連で中華人民共和国とアメリカや日本などはヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡政権と見なして承認せず、ゲリラである民主カンプチア連合政府に国連の議席を維持させ続けた。 1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。1984年7月の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム三派の民主カンプチア連合政府の拠点であるマライ山を攻略、3月にはシハヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンプチア連合政府の軍事力はほぼ壊滅した。
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