ベトナム軍によるプノンペン陥落以後
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「カン・ケク・イウ」の記事における「ベトナム軍によるプノンペン陥落以後」の解説
1979年1月、ベトナム軍がプノンペンに近づきつつあるとき、ヌオン・チェアから、S-21にある文書を廃棄して証拠隠滅するよう指示を受けたが、ドッチはこれを実行しなかった。S-21Aには10万ページ以上にのぼる1974年以来の文書が残っており、量が多すぎて処分不可能だったからだと考えられている。他の政府要人や職員がプノンペンから逃げている中、ドッチはS-21に残って、残っている囚人の殺害の様子を見とどけていた。プノンペンがベトナム軍の手に落ちてから1時間後の1月7日の正午になっても、ドッチはまだS-21に残っていた。(ベトナム軍がS-21Aを発見し内部を調べ始めたのは1月8日のことである。プノンペン陥落時まだ所内に残っていた所員は、1月7日は市内に隠れており、翌8日になって徒歩で脱出した)ドッチはかろうじてベトナム軍から逃れたが、翌日になっても3マイル先にあったプレイ・ソー刑務所までしか逃げることはできなかった。その後カルダモン山脈へ向かい、5月になってタイ国境にたどり着いた。そこで、ヌオン・チェアは、ドッチが文書廃棄しなかったことを知らされて激怒した。 1979年以降のドッチの動向は外部には漏れ聞こえず、多くの人が1980年代にドッチは死んだと思っていた。実際には、タイ国境付近のクメール・ルージュ支配地域で活動しており、インタビューでのドッチ自身の発言によれば、「1986年6月25日にソン・センに呼ばれて、中国へ行って、北京外国語研究所(Beijing Foureign Languages Institute)で教えるように言われた。1988年7月1日に戻ってきた。」一方、ドッチは中国国際放送局(当時は「北京放送」)で働いた、と書く文献もある。 その後、1992年1月にクメール・ルージュから逃げ出し、カンボジア北西部の政府側支配地域にあったスヴァイ・チェク(Svay Chek)に移った。「最初は一般の人間として生活していたが、その後、この地域の学校で教えるようになった。さらに後では、中学校でフランス語を教えた。」 1993年12月25日にキリスト教徒になり、1996年1月6日にバッタンバン川で洗礼式を受けた。ドッチの受けたキリスト教の教育は、カンボジアキリスト省(Cambodian Ministry of Christ、伝道組織)と太平洋キリスト教大学(Pacific Christian College、カルフォルニアが本拠の国際希望大学(International Hope University)内の一組織)の学部長からのものである。また、洗礼式を取り仕切ったのは、アメリカ太平洋大学である。ドッチ自身の発言によれば、キリスト教徒になったのは自分の意思によってである。洗礼を受ける少し前の1995年11月11日、スヴァイ・チェクで盗賊に襲われAK-47の銃剣で突かれて妻が死亡した。また、ドッチも負傷し、自身の安全のためクメール・ルージュ支配地域へ戻った。1999年4月にニック・ダンロップがドッチを発見する数ヶ月前までは、複数の変名を使いながら(例えば、ニック・ダンロップとネト・セイヤーがドッチに初めてインタビューした時、最初はタ・ピン(Ta Pin)と名乗っていた。それ以外にも、ホン・ペン(Hong Pen)という名前も用いていた。)、タイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。(国連やアメリカ難民委員会(American Refugee Committee、私立の人道機関。タイ国境にあった国連管理の難民キャンプで難民に健康サービスや訓練を提供していた)で働いていた。)国連もアメリカ難民委員会もドッチの過去については何も知らず、またドッチの評判は非常に高かった。実際、アメリカ難民委員会は、難民キャンプで腸チフスの流行を止めたことでドッチに感謝状を贈っている。一方で、カンボジア政府は少なくとも1997年の半ばまでにはドッチの居場所を突き止めていたが、おそらく政治的決定でドッチの逮捕をしない方針をとった。
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