ベトナム難民とは? わかりやすく解説

インドシナ難民

(ベトナム難民 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 09:46 UTC 版)

インドシナ難民(インドシナなんみん)とは、1975年ベトナムラオスカンボジア(総称してインドシナ三国)が社会主義体制に移行したことにより、経済活動が制限されたり、同体制の下で迫害を受ける恐れがあったり、体制に馴染めないなどの理由から自国外へ脱出し、難民となった人々の総称。

難民の流出は1970年代後半から1980年代を通して見られ[1]、特にその一部はボート・ピープルとして海外へと脱出したことで世界から注目された。

概説

ベトナム戦争末期にヘリコプターでアメリカ軍の航空母艦に脱出した南ベトナム人

インドシナ三国からの難民の総数は約144万人に達し、その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、アメリカ合衆国(アメリカ)・オーストラリアカナダフランス日本など第三国に定住した。1979年にピークを迎え、同年からは、ベトナム政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)との間で締結された「合法出国に関する了解覚書」に準拠し、合法出国計画(ODP)が開始され、その結果、人道的ケースや家族再会に限定し、ベトナムからの合法出国が認められることとなった[2]ベトナム脱出の手段としてボートを用いた人々を特にボート・ピープルと呼ぶ。ボート・ピープルは1979年 - 1982年頃にピークが見られる[1]

これらの人々の多くは中国系であり、1979年前後には、急激な社会主義化による資産制限国有化に加え、中越戦争による民族的緊張から、都市部で商業を営む華人が大量に国外脱出し国際的問題となった。1975年以前、南北ベトナムに在住していた145万人の華人のうち、26万人は中国に帰国、111万1000人がアメリカ・カナダなどに移住し、在ベトナムの華人人口は1987年には28.5万人にまで減少した[3]。統一前、南部に居住する華人120万人のうち110万人はサイゴンに在住し、さらにそのうち70万人はチョロン在住であった。中越戦争期には華人が大量出国したため、チョロンの華人人口は1975年の70万人から1978年に10万人にまで激減した[4]

当時、香港マカオの難民収容所の7割は、中国系ベトナム人であった[5]1978年、オーストラリアのマッケラー移民相は、ベトナム当局が社会事業の一環として国内の華僑人口を減らすため難民の大量流出を助長している証拠は十分に揃っているとしてベトナムを非難した。 オーストラリアは19751985年の10年間に9万人以上のベトナム難民を受け入れているが、1986年のオーストラリア在住の華僑・華人人口20万人のうちベトナム出身の華僑・華人は最多の39 %で[6]、約8万人であった。

その後、ドイモイ政策以後は帰国者も増え、ベトナムにおける華人人口は復調傾向にある。

また、ベトナムでは政府によって、約10万人にのぼる南ベトナム政府及び南ベトナム軍関係者らに当局への出頭が命ぜられ再教育キャンプに送られ、階級・地位に応じてそれぞれ短いものは数週間、長いものは数年以上をキャンプで過ごした。1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年間以上収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した。当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求し、それを受けてのことである[7]

各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。

アメリカには多くの亡命ベトナム人のコミュニティや中国系ベトナム人のチャイナタウンが存在している。1970年代後期から、第三国に移住したインドシナ系中国人の増加により、フランスやオーストラリア、カナダ、アメリカなどでは世界有数規模のチャイナタウンが新たに形成されていった。 ニューヨークロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南部13区シドニー郊外カブラマッタなどの大規模なチャイナタウンは1975年以降、海外に移住したインドシナ系中国人により形成されたものである。

年表

日本の受け入れ対応

1979年昭和54年)、日本国政府はインドシナ難民の定住促進のための具体的業務を、財団法人アジア福祉教育財団に委託。同財団は難民事業本部を設置した。

  • 姫路定住促進センター(兵庫県姫路市仁豊野(淳心会用地内))[9]
    • 運営期間:1979年12月 - 1996年3月
    • インドシナ難民のための日本語教育、社会生活適応指導、職業の斡旋・紹介、定住後のアフターケアなどの支援を実施。
    • 2,149人が日本語教育を受け、1,508人が就職。
  • 大和定住促進センター(神奈川県大和市[10]
    • 運営期間:1980年2月 - 1998年3月
    • インドシナ難民のための日本語教育、社会生活適応指導、職業の斡旋・紹介、定住後のアフターケアなどの支援を実施。
    • 2,090人が日本語教育を利用。1,045人が就職。 

脚注・参考文献

  1. ^ a b インドシナ難民とは 難民事業本部
  2. ^ 財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部
  3. ^ 若林敬子「中国人口超大国のゆくえ」岩波書店 著者は厚生省人口問題研究所 地域構造研究室室長
  4. ^ 読売新聞夕刊 1992年9月8日および9月9日
  5. ^ 「インドシナ難民問題と日本」外務省情報文化局 1981年
  6. ^ 「華人月刊」1989年3月
  7. ^ ニール・シーハン『ハノイ&サイゴン物語』P156
  8. ^ 難民問題と日本 III-国内における難民の受け入れ- 1978年-2005年末(受け入れ終了)までのインドシナ難民定住受入れ数。
  9. ^ 姫路定住促進センター16年誌 1996, p. 8-12,14.
  10. ^ https://web.archive.org/web/20150923204258/http://www.city.yamato.lg.jp/web/shakai/reki16-05.html
  • 『姫路定住促進センター16年誌』財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部、1996年9月。 
  • 『大和定住促進センター18年誌』
  • 『大和市議会史 資料編Ⅱ』

関連項目

外部リンク


ベトナム難民 (1975年から2005年まで)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 07:30 UTC 版)

マレーシアとベトナムの関係」の記事における「ベトナム難民 (1975年から2005年まで)」の解説

1975年ベトナム戦争末期迎えたが、サイゴン陥落直後同年5月ボート脱出した初めてのベトナム人難民が、マレーシア到着し始めた初めマレーシア到着したボートには、47名が乗っていた。マレーシア上陸した難民の数は、ベトナム政府南ベトナム私有財産没収政策実施する1978年時点までは、小規模なものであった結果として大規模なベトナム人 (そのほとんどが没落した華人であった) が、自国より大挙して脱出した政府統計によればマレーシア1977年受け入れた難民500であったのに対し1978年11月時点では1万9,000となったマレーシア内務省1978年同国上陸する難民増加制限すべく、連邦タスクフォースVII設立したメディアは、難民マレーシア警察軍隊によって押し帰され事件報じている。この対応として難民たちは、マレーシアから入国許可を得るため自分たちのボート故意沈めるという手段をとった。この作戦政府知られるようになったとき、当時マハティール副首相1979年6月上陸試み難民対す警察海軍による発砲可能にする法律施行する発表した。しかしマハティール副首相の上役であるフセイン・オン首相は、マハティールによる銃撃脅威をすぐに撤回した最初のベトナム難民は、トレンガヌ州のビドン島(英語版)に国連支援によって1978年8月設立された。2万5,000名の難民が、すぐにビドン島に居住するようになったその他の難民キャンプは、テンガ島(英語版)、ブサール島(英語版)、コタバルクアンタンサラワク州およびサバ州設置された。クアラルンプールのスンガイ・ブシ(英語版)に一時収容センター1982年設立された。ここは、難民西側諸国永住受け入れてもらうべく、マレーシアから国外退去するのを待つための施設であった1981年から1983年にかけての間、到着するベトナム難民の数は変動したが、その後1984年から1986年までは大きく減少した1987年マレーシア近隣諸国は、大量のベトナム難民がマレーシア上陸すべく波のように押し寄せる姿を目にした。1987年6月ASEANサミットにおいて、難民による国外脱出ベトナム政府無視していることに対し加盟国が不満を表明した1988年8月、ベトナム難民が戻るよう説得され上で自発的に本国送還される協定を、マレーシアベトナム結んだ数名ベトナム政府派遣団が、いくつかの難民キャンプアウトリーチ会合開催した。この協定は、1980年から89年の間で自発的な本国帰還を行うため登録された者が40名にも満たなかったため、不成功だと考えられた。1989年3月14日最終期限とし、この日よりも以前上陸した全てのベトナム人自動的に難民認定される一方、この日以降にやってきた全ての難民は、難民としての地位制限するための選別を行うとした。この選別方法は、難民受け入れ意志示している西側諸国移送するため、難民の地位与えるかを決定する調査を、本人到着時に徹底的に行うというもので、これは1988年6月国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR) が制定した。この10カ月間で、9,000名のうち4,000名が西側諸国移送された。また同時期において、さらに1万1,000名の難民マレーシア上陸した上陸したベトナム人対し難民の地位与えることを制限することになるこの規則厳密な実施は、自発的本国送還プログラム選択する一部ベトナム人刺激した1989年には、マレーシアにやってきた1,000名から2,000名のベトナム人難民が、本国帰還したベトナム帰還することを選んだ難民には、UNHCRによって最大1年分の給付金支給された。1990年代初めにベトナム経済成長経験したため、マレーシア上陸する難民の数は、急激に減少したマレーシアベトナム、そしてUNHCRによる一致協力した問題への取り組みにより、マレーシアにおけるベトナム難民の人口規模減少させることができ、ビドン島の難民キャンプ1991年11月には閉鎖となった。3,000名のベトナム難民が、自発的帰還プログラム参加しマレーシア国内難民の数は、1994年までには6,000名まで減少したマレーシア上陸したベトナム人のうちマレーシア残った者のほとんどは、UNHCRによる選別方法通過できず不法難民分類された。彼ら/彼女ら多数派は、ベトナムへ帰還不本意ながら受け入れることを表明したものの、収容所閉鎖ニュース伝わった1995年デモ暴動引き起こした。スンガイ・ブシの難民収容センターその後1996年6月閉鎖された。最後難民ベトナム帰還したのは、2005年であった

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