インドシナ難民
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インドシナ難民(インドシナなんみん)とは、1975年、ベトナム・ラオス・カンボジア(総称してインドシナ三国)が社会主義体制に移行したことにより、経済活動が制限されたり、同体制の下で迫害を受ける恐れがあったり、体制に馴染めないなどの理由から自国外へ脱出し、難民となった人々の総称。
難民の流出は1970年代後半から1980年代を通して見られ[1]、特にその一部はボート・ピープルとして海外へと脱出したことで世界から注目された。
概説

インドシナ三国からの難民の総数は約144万人に達し、その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、アメリカ合衆国(アメリカ)・オーストラリア・カナダ・フランス・日本など第三国に定住した。1979年にピークを迎え、同年からは、ベトナム政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)との間で締結された「合法出国に関する了解覚書」に準拠し、合法出国計画(ODP)が開始され、その結果、人道的ケースや家族再会に限定し、ベトナムからの合法出国が認められることとなった[2]。ベトナム脱出の手段としてボートを用いた人々を特にボート・ピープルと呼ぶ。ボート・ピープルは1979年 - 1982年頃にピークが見られる[1]。
これらの人々の多くは中国系であり、1979年前後には、急激な社会主義化による資産制限・国有化に加え、中越戦争による民族的緊張から、都市部で商業を営む華人が大量に国外脱出し国際的問題となった。1975年以前、南北ベトナムに在住していた145万人の華人のうち、26万人は中国に帰国、111万1000人がアメリカ・カナダなどに移住し、在ベトナムの華人人口は1987年には28.5万人にまで減少した[3]。統一前、南部に居住する華人120万人のうち110万人はサイゴンに在住し、さらにそのうち70万人はチョロン在住であった。中越戦争期には華人が大量出国したため、チョロンの華人人口は1975年の70万人から1978年に10万人にまで激減した[4]。
当時、香港、マカオの難民収容所の7割は、中国系ベトナム人であった[5]。1978年、オーストラリアのマッケラー移民相は、ベトナム当局が社会事業の一環として国内の華僑人口を減らすため難民の大量流出を助長している証拠は十分に揃っているとしてベトナムを非難した。 オーストラリアは1975 − 1985年の10年間に9万人以上のベトナム難民を受け入れているが、1986年のオーストラリア在住の華僑・華人人口20万人のうちベトナム出身の華僑・華人は最多の39 %で[6]、約8万人であった。
その後、ドイモイ政策以後は帰国者も増え、ベトナムにおける華人人口は復調傾向にある。
また、ベトナムでは政府によって、約10万人にのぼる南ベトナム政府及び南ベトナム軍関係者らに当局への出頭が命ぜられ再教育キャンプに送られ、階級・地位に応じてそれぞれ短いものは数週間、長いものは数年以上をキャンプで過ごした。1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年間以上収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した。当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求し、それを受けてのことである[7]。
各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。
- アメリカ - 823,000人
- オーストラリア と カナダ - 各137,000人
- フランス - 96,000人
- ドイツ と イギリス - 各19,000人
- 日本 - 11,319人[8]
- イスラエル 400人
アメリカには多くの亡命ベトナム人のコミュニティや中国系ベトナム人のチャイナタウンが存在している。1970年代後期から、第三国に移住したインドシナ系中国人の増加により、フランスやオーストラリア、カナダ、アメリカなどでは世界有数規模のチャイナタウンが新たに形成されていった。 ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南部13区、シドニー郊外カブラマッタなどの大規模なチャイナタウンは1975年以降、海外に移住したインドシナ系中国人により形成されたものである。
年表
- 1975年4月:カンボジアでポル・ポト政権が樹立
- 同年5月:日本に初めてのボート・ピープルが上陸
- 同年12月:ラオス人民民主共和国成立
- 1976年1月:民主カンボジア成立、大量の難民が発生
- 同年7月:アメリカがベトナム戦争介入に失敗、ベトナム社会主義共和国成立
- 1979年1月:ポル・ポト政権崩壊、カンプチア人民共和国が成立
- 同年2月:中越戦争勃発により大量の難民が発生
- 同年7月:インドシナ難民問題国際会議が開催される
- 1981年6月:日本が難民条約へ加入
日本の受け入れ対応
1979年(昭和54年)、日本国政府はインドシナ難民の定住促進のための具体的業務を、財団法人アジア福祉教育財団に委託。同財団は難民事業本部を設置した。
脚注・参考文献
- ^ a b インドシナ難民とは 難民事業本部
- ^ 財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部
- ^ 若林敬子「中国人口超大国のゆくえ」岩波書店 著者は厚生省人口問題研究所 地域構造研究室室長
- ^ 読売新聞夕刊 1992年9月8日および9月9日
- ^ 「インドシナ難民問題と日本」外務省情報文化局 1981年
- ^ 「華人月刊」1989年3月
- ^ ニール・シーハン『ハノイ&サイゴン物語』P156
- ^ 難民問題と日本 III-国内における難民の受け入れ- 1978年-2005年末(受け入れ終了)までのインドシナ難民定住受入れ数。
- ^ 姫路定住促進センター16年誌 1996, p. 8-12,14.
- ^ https://web.archive.org/web/20150923204258/http://www.city.yamato.lg.jp/web/shakai/reki16-05.html
- 『姫路定住促進センター16年誌』財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部、1996年9月。
- 『大和定住促進センター18年誌』
- 『大和市議会史 資料編Ⅱ』
関連項目
外部リンク
ベトナム難民 (1975年から2005年まで)
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「マレーシアとベトナムの関係」の記事における「ベトナム難民 (1975年から2005年まで)」の解説
1975年にベトナム戦争は末期を迎えたが、サイゴン陥落直後の同年5月、ボートで脱出した初めてのベトナム人難民が、マレーシアに到着し始めた。初めてマレーシアに到着したボートには、47名が乗っていた。マレーシアに上陸した難民の数は、ベトナム政府が南ベトナムの私有財産の没収政策を実施する1978年時点までは、小規模なものであった。結果として大規模なベトナム人 (そのほとんどが没落した華人であった) が、自国より大挙して脱出した。政府統計によれば、マレーシアが1977年に受け入れた難民は500名であったのに対し、1978年11月時点では1万9,000名となった。マレーシア内務省は1978年、同国に上陸する難民の増加を制限すべく、連邦タスクフォースVIIを設立した。メディアは、難民がマレーシア警察や軍隊によって押し帰される事件を報じている。この対応として難民たちは、マレーシアから入国許可を得るため自分たちのボートを故意に沈めるという手段をとった。この作戦が政府に知られるようになったとき、当時のマハティール副首相は1979年6月、上陸を試みる難民に対する警察と海軍による発砲を可能にする法律を施行すると発表した。しかしマハティール副首相の上役であるフセイン・オン首相は、マハティールによる銃撃の脅威をすぐに撤回した。 最初のベトナム難民は、トレンガヌ州のビドン島(英語版)に国連の支援によって1978年8月に設立された。2万5,000名の難民が、すぐにビドン島に居住するようになった。その他の難民キャンプは、テンガ島(英語版)、ブサール島(英語版)、コタバル、クアンタン、サラワク州およびサバ州に設置された。クアラルンプールのスンガイ・ブシ(英語版)に一時収容センターが1982年に設立された。ここは、難民が西側諸国で永住を受け入れてもらうべく、マレーシアから国外退去するのを待つための施設であった。1981年から1983年にかけての間、到着するベトナム難民の数は変動したが、その後の1984年から1986年までは大きく減少した。1987年、マレーシアと近隣諸国は、大量のベトナム難民がマレーシアに上陸すべく波のように押し寄せる姿を目にした。1987年6月、ASEANサミットにおいて、難民による国外脱出をベトナム政府が無視していることに対し、加盟国が不満を表明した。 1988年8月、ベトナム難民が戻るよう説得された上で非自発的に本国に送還される協定を、マレーシアとベトナムが結んだ。数名のベトナム政府派遣団が、いくつかの難民キャンプでアウトリーチ会合を開催した。この協定は、1980年から89年の間で自発的な本国帰還を行うため登録された者が40名にも満たなかったため、不成功だと考えられた。1989年3月14日を最終期限とし、この日よりも以前に上陸した全てのベトナム人は自動的に難民に認定される一方、この日以降にやってきた全ての難民は、難民としての地位を制限するための選別を行うとした。この選別方法は、難民受け入れの意志を示している西側諸国に移送するため、難民の地位を与えるかを決定する調査を、本人が到着時に徹底的に行うというもので、これは1988年6月に国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR) が制定した。この10カ月間で、9,000名のうち4,000名が西側諸国に移送された。また同時期において、さらに1万1,000名の難民がマレーシアに上陸した。 上陸したベトナム人に対し難民の地位を与えることを制限することになるこの規則の厳密な実施は、自発的本国送還プログラムを選択する一部のベトナム人を刺激した。1989年には、マレーシアにやってきた1,000名から2,000名のベトナム人難民が、本国に帰還した。ベトナムに帰還することを選んだ難民には、UNHCRによって最大1年分の給付金が支給された。1990年代初めにベトナムは経済成長を経験したため、マレーシアに上陸する難民の数は、急激に減少した。マレーシア、ベトナム、そしてUNHCRによる一致協力した問題への取り組みにより、マレーシアにおけるベトナム難民の人口規模を減少させることができ、ビドン島の難民キャンプは1991年11月には閉鎖となった。3,000名のベトナム難民が、自発的帰還プログラムに参加し、マレーシア国内の難民の数は、1994年までには6,000名まで減少した。マレーシアに上陸したベトナム人のうちマレーシアに残った者のほとんどは、UNHCRによる選別方法を通過できず不法難民に分類された。彼ら/彼女らの多数派は、ベトナムへの帰還を不本意ながらも受け入れることを表明したものの、収容所閉鎖のニュースが伝わった1995年にデモや暴動を引き起こした。スンガイ・ブシの難民収容センターはその後、1996年6月に閉鎖された。最後の難民がベトナムに帰還したのは、2005年であった。
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