特攻の思想
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大西は神風特別攻撃隊の創始者であるが、神風特攻隊以外も含む「特攻の生みの親」とする見方については、第一航空艦隊長官になる以前から特攻の支持者であったという認識に支えられているという見方とそれ以前に特攻は中央で研究されているので誤りとする見方がある。神風特攻隊に関しては、中央の研究する特攻とは別物であり、大西から中央に事前報告はあったが、神風特攻隊は大西独自の動きであった。 大西は一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を次のように説明した。大西は軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろうという。 大西は、特攻は「統率の外道」と考えていた。また、当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても敵の餌食になるだけとして、体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことができる特攻は大愛、大慈悲であるとも考えていた。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口力平によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという。副官門司親徳に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという。福留繁によれば大西は「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという。戸川幸夫(東京日日新聞記者、のちに作家)から「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」と質問された大西は「勝てないまでも負けないということだ」「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」と答えている。後藤基治(大阪毎日新聞記者)から特攻を続ける理由を聞かれた大西は「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と答えた。 吉岡忠一は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう。」と話した。吉松正博は大西が第一航空艦隊長官に就いた人選は場合によっては特攻もやむを得ないとする中央が航空関係者から人望のある大西を適任と考えたものだろうと話している。源田実は「大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろう。それが海軍軍人である」と話している。門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語った。
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