水中・水上特攻
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フィリピン戦では陸軍の特攻艇マルレと比較すると活躍できなかった震洋であったが、沖縄戦でも石垣島にアメリカ軍が上陸してくると海軍は予想していたため、5隊を石垣島に送り、沖縄本島にはたった2隊しか配置されておらず、最初から戦力不足であった。海軍の予想に反しアメリカ軍は石垣島に上陸せず沖縄本島に進攻してきたが、アメリカ軍は更に陽動作戦をしかけ、実際には上陸しない沖縄本島東岸の中城湾に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけてきた。海軍根拠地隊の司令官大田実少将はまんまとこの囮作戦に引っかかってしまい、1945年3月27日に12隻、29日には全震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前にわずか20隻の震洋を残すのみとなってしまった。しかし太田指揮の他の海上部隊は活躍しており、第27魚雷艇部隊はスカイラーク (掃海艇)(英語版)を撃沈し、特殊潜航艇部隊の蛟竜もしくは甲標的丙型がハリガン (駆逐艦)(英語版)を撃沈する戦果を挙げている。 震洋の最後の出撃の機会はアメリカ軍が沖縄本島に上陸した後の1945年4月3日に訪れた。南部の糸満市沖に2隻の特攻艇対策部隊の40mmボフォースと25mmエリコンの機関砲を搭載した歩兵揚陸艇が現れたため、太田は残った14隻の震洋に出撃を命令したが、出撃用の運搬車も空襲で破壊されており、わずか4隻しか出撃できなかった。わずか4隻しか出撃できなかったので搭乗員が各艇に2人ずつ搭乗していたが、重さのために速度が出ず、2隻の内LCI-82は撃沈したが、もう1隻の14ノットしか出ない低速の歩兵揚陸艇に逃げられてしまった。この戦闘後残った震洋は自沈し、石垣島や奄美大島に配置されていた震洋隊で沖縄本島を攻撃しようとしたが空襲で阻止され、フィリピンに続き沖縄でも海軍の特攻艇は十分な成果を挙げることなく壊滅した。 フィリピンに引き続き沖縄でもマルレは投入されたが、沖縄本島上陸前の3月26日に3個戦隊300隻のマルレを配備していた慶良間諸島にアメリカ軍が上陸してきた。日本軍の作戦としては、沖縄本島に上陸してきたアメリカ軍の輸送艦隊を、慶良間の海上挺進戦隊が背後から叩く計画であったが、その作戦を立てた第32軍高級参謀八原博通大佐の懸念が的中し、沖縄のマルレ部隊の主力は、戦う前に壊滅し部隊巡視中の第32軍船舶隊長大町大佐も戦死した。マルレの多くは爆破されたが、一部が接収されたのと沖縄におけるマルレの配置図と戦術教本も発見され、アメリカ軍はこれらを特攻艇対策に大いに役立てている。PTボートなどによる特攻対策部隊と教本を元にした秘密特攻艇対策で、沖縄本島に配置されていたマルレは次々と撃破されたが、それでも中型揚陸艦LSM-12を撃沈、ハッチンス (駆逐艦)(英語版)と特攻対策部隊のパトロール艇LCS-37を大破させ両艦ともそのまま廃棄に追い込み、チャ―ルズ・A・バジャー (駆逐艦)(英語版)を大破航行不能にさせ、リバティ輸送船カリーナ大破他数隻に損傷を与えるなどの損害を与えた後に組織的戦闘力を喪失し、残存艇は第32軍による逆上陸作戦の兵員輸送や補給・通信任務に転用された。 「多々良隊」「天武隊」「轟隊」と、日本海軍のわずかに残った潜水艦で回天攻撃隊が次々と編成され、沖縄に侵攻してきた艦隊への攻撃や、沖縄とサイパンやウルシーなどのアメリカの後方基地との通商破壊作戦を実施したが、洋上での回天の運用は困難で、母艦の潜水艦の損失が増えるばかりで目ぼしい戦果は無かった。沖縄戦での日本軍の敗北が確定した1945年7月に、日本海軍が残存潜水艦戦力の総力を挙げて6隻の「多聞隊」を編成し、沖縄と後方基地の通商破壊作戦を行った。その内の伊53潜は1945年7月24日、ルソン島沖でLST7隻と冷凍船1隻とそれを護衛する護衛駆逐艦アンダーヒル他合計17隻の敵輸送船団を発見。勝山淳中尉(海兵73期)搭乗の回天を発射し、アンダーヒルを撃沈した。またその後の7月28日には、伊58潜が発射した回天の爆発でロウリー (駆逐艦)(英語版)が損傷しており、この損害は日本軍潜水艦がまだフィリピン海域で活動していることを示していたが、この損害によりアメリカ軍が警戒を強化することはなかった。 広島、長崎へ投下予定の原子爆弾用の部品と核材料を、急ぎテニアン島へ運ぶ極秘任務を終えた重巡洋艦インディアナポリス(インディアナポリスは1945年3月31日に沖縄戦において陸軍特別攻撃隊誠第39飛行隊の一式戦1機の突入を受け大破。修理のためアメリカ本土に後送されたのちに与えられたのが当任務)は、7月28日にグアム島からレイテ島に向かっていた。艦長のチャールズ・B・マクベイ3世には多聞隊出撃の情報も、アンダーヒルの沈没やロウリーの損傷の情報も知らされていなかったことから、対潜警戒のジグザグ航行も隔壁の閉鎖の措置も取っていなかった。インディアナポリスを発見した伊58潜は残る3基の回天の発射準備を行っており、艦長の橋本に回天隊員らは何度も電話で「早く出撃させて下さい」と督促したが、橋本は通常魚雷で撃沈可能と判断し、「わざわざ人命を犠牲にする必要はない」と回天隊員らの督促を黙殺して、九五式酸素魚雷を合計6本を全門発射し、3本が右舷に命中、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾が誘爆させ、わずか12分後に転覆、沈没した。橋本は撃沈したのをアイダホ級戦艦と誤認したまま暗号で戦果報告をしたが、これをアメリカ軍は傍受し暗号を解読したにも関わらず、橋本が戦艦撃沈と誤認報告していたため、インディアナポリスのこととは気が付かなかった。救助活動は沈没後84時間経過してからようやく開始され、撃沈時に戦死したのが約350名だったのに、海上を漂流している84時間の間に500名以上が死亡し全体の戦死者は883名にも上り、アメリカ軍の第二次世界大戦でのもっとも悲惨な損害と言われた。伊58潜はこの後も回天で駆逐艦・水上機母艦・工作艦などを攻撃後(戦果はなし)無事に日本に帰投している。「多聞隊」は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げ、回天作戦の有終の美を飾るものであり、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された。
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