建築の歴史
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カールトン・ハウスが建設された土地は、かつては「王立公園」(Royal Garden) 、あるいは「原野」(Wilderness) として知られていたセント・ジェームズ宮殿の敷地の一部だった。後者はチャールズ2世のいとこのカンバーランド公ルパートが所有していた時代の呼称で、後に「アッパー・スプリング・ガーデン」(Upper Spring Garden) と呼ばれた。 1700年からその土地はヘンリー・ボイルの所有となり、彼はその土地に建っていた邸宅の改修に2,835ポンドを費やした。アン女王はボイルに対して、1709年11月2日から年 35 ポンドで 31 年間の賃借権を下賜する旨の特許状を発行した。ボイルは1714年にカールトン男爵 (Baron Carleton) に叙爵され、それ以降邸宅は「カールトン・ハウス」(Carleton house) と呼ばれるようになったが、いつの時点からか「e」の文字が欠落した。1725年、カールトンの死に伴い、土地の賃借権は甥のバーリントン伯爵に承継され、ジョージ2世は1731年1月にバーリントンに対し、年35ポンドでさらに40年間の賃借権を下賜する特許状を発行した。1732年2月23日付の契約により、賃借権はジョージ2世の長男でプリンス・オブ・ウェールズのフレデリック・ルイスに承継されたが、彼は1751年に父に先立ち逝去した。彼の未亡人となったオーガスタはそのまま邸宅に住み続け、改築を行い敷地を拡大するために隣接する不動産を購入し続けた。オーガスタは1772年に亡くなり、邸宅は彼女の息子ジョージ3世により承継された。 その後邸宅はジョージ3世から、その長男でプリンス・オブ・ウェールズ (後の摂政王太子) のジョージに彼が成人した1783年に下賜された。王太子はウィリアム・チェンバーズを建築家として任命したが、最初の調査の後すぐにヘンリー・ホランドと交代させた。チャンバーズ及びホランドはフランス新古典主義様式の建築家であり、カールトン・ハウスはルイ16世様式のイングランドへの導入に強い影響を及ぼした。 ホランドは、庭園の前面に沿った邸宅の主要なレセプション・ルーム (応接間) である大広間 (State Apartments) から仕事に着手した。建設は1784年に始まった。1785年9月にいつもは辛口のホレス・ウォルポールがこの部屋を訪れたとき、彼は感銘を受け、「カールトン・ハウスは完成したとき、『ヨーロッパで最も完璧なもの』になるであろう」との言葉を残した。 そこには私を驚かせた8月のシンプルさがある。あなたはそれを壮大と呼ぶことはできない。驚かせられたのはその味わいと妥当性である。全ての装飾品は適切な距離にあり、大きすぎず、どれも繊細で新しく、ギリシアの装飾品よりも自由で多様性がある。それらはおそらくオテル・ド・ブルボン=コンデや他の新しい宮殿からの借り物であるが、フランスの物ほど古典主義的ではない しかしながらカールトン・ハウスの建設は、王太子の債務のため1785年の終わりまでに中止された。マリア・フィッツハーバート (英語版) との結婚後、彼の未払債務は25万ポンドに達した。議会はカールトン・ハウスに係る莫大な費用を調査し、完成するためにどれくらいの費用が必要なのか見積もりをするための委員会を設置した。1787年5月、王太子は悲しそうな面持ちで父親ジョージ3世と面談し、邸宅を完成させるために資金を拠出することを懇願した。1787年夏に建設は再開され、完成まで6万ポンドの予算で、フランスの著名な家具メーカーや職人達の支援を受けて行われた。この時期カールトン・ハウス建設に貢献したフランス人職人達は、パリのマルシャン・メルシエであったドミニク・ダゲール (英語版) の監督下にあった。ダゲールはマリー・アントワネットの室内装飾家 (interior decorator) で、アダム・ワイスワイラーの家具を輸入する代理店だった。
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