特選神名牒とは? わかりやすく解説

特選神名牒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 01:17 UTC 版)

『特選神名牒』の洋装一巻本の本文[1]

特選神名牒』(とくせんしんみょうちょう/-じんみょうちょう)は『延喜式神名帳』の注釈書である。教部省撰の全32冊。正史や古書、及び明治になって各府県にて作成された「神社取調書」や「神社明細帳」を参考に考証し、『神名帳』記載順に従い、各式内社の祭神・神位・社格・所在地等を記す。編集は同省の栗田寛小中村清矩小杉榲邨井上頼圀等が担当したようであるが、関係書類焼失のため(後述)詳細は不明である[2]。明治9年(1876年)に一応の完成を見て以降、その手書本が内務省神社局に所蔵されていたが、大正14年(1925年)に洋装1巻本として磯部甲陽堂から刊行された。

編纂経緯

前史

明治元年(1868年)、神仏分離の一環として、全国神社に対しその由緒を管轄する領主へ届け出るよう通達し、次いで同2年6月10日府藩県に命じて、式内社及び各府藩県において崇敬厚い大社の由緒や社伝等を調査録上させたが、なかなか進捗しないために、翌明治3年2月29日、暫定処置として各府藩県の官幣神社の分を同年9月までに神祇官へ提出するよう改めて命じ、それらを纏めて『式社崇敬社調書』が編纂された。更に同年閏10月28日、神社規則制定の必要から府藩県に管内神社のより詳細な調査を命じ(『大小神社取調書』として結実)、それを基に同4年5月、官国幣社以下の社格が規定された。(詳しくは近代社格制度を参照)

編纂

『特選神名牒』の洋装一巻本の「遠江國」の章[3]

明治4年の神社規則は当時の実状によって社格の上下を定めたものであったため、式内社や国史見在社の中には社格を与えられないもの(無格社)もあり、それらの廃絶を憂慮した教部省(神祇官の後身)において本書の編纂が発起された。明治7年4月10日上級官である太政官に、式内社と国史見在社を主対象とする本書を編纂し、収載の神社は春秋2季に宮中の神殿(当時は賢所に合祭されていた)にて遙祭し、その社地は官幣社に準じて保存する、という内容の本書編纂の伺いをたて、同月17日に改めて太政官へ、各府県に対し管内神社の調査を命じる太政官からの御達状の案文を上申した。太政官においては、府県の事務を煩わすことが危惧され、5月5日にその是非を内務省へ打診したところ、案の定地方事務煩雑を理由とする反対意見が上申されたため(同月14日)、教部省に対して、本書編纂は許可するものの、神殿での遥祭と社地保存の可否は本書完成を待つこと、また府県に対する調査命令は太政官からではなく教部省布達とすること、と指令した(同月22日)。そこで6月に教部省から府県に対して、管内式内社と国史見在社を遺漏無く調査し、同年9月末日までに報告するよう布達を下した。ちなみに調査の内容は、1鎮座地、2社名、3祭神、4由緒(社家の家系を含む)、5勧請の年月、6例祭日、7社殿の建坪、8境内地の面積(旧境内地を含む)、9旧社領、10氏子戸数、11管轄庁からの距離、の11項目であった。また省内においては、社寺課と考証課の2課を中心に編纂掛を設けたが、明治2-4年の神社調査よりも更に詳細な調査を求めるものであったため、期限を過ぎてもなかなか報告が集まらず、再三の督促を命じても、そのたびに猶予を願う府県が出る始末であった。明治9年8月になっても尚難航していたが、翌年1月には教部省が廃止されることになったため、遺漏を残しつつも同年12月に一応の完成を見たのが本書である[4]

刊行経緯

明治9年に完成した後、内務省に蔵せられて閲覧に不便であったため、大正11年に公刊する計画が建てられた。磯部甲陽堂が刊行の準備をしていたが、印刷途中の同12年9月に関東大震災が起こり、その災禍で草稿から清書本に至る原本(内務省本)は4冊を残し、その他上述『式社崇敬社調書』や『大小神社取調書』を始め関係書類の全てを焼失した[5]。幸いに甲陽堂の堂主が校了した580頁の紙型を携えて避難しており、印刷に回されていた原稿も行李に入ったまま回収されたため、それらを基に当時の内務省嘱託太田亮(おおた あきら)を監督に校正し、原本との対校は不可能であったが、「神社明細帳」を参考に大正当時における所在地と社格を付記して刊行された。なお、凡例によれば、原本には国史見在社の記載もあったようであるが、現刊本中には見えない。

脚注

  1. ^ 教部省編纂『特選神名牒』磯部甲陽堂、1925年、1頁。
  2. ^ 栗田の旧蔵書中に本書の草稿が残されており、また焼失以前の稿本は全て小杉の自筆で、小中村や栗田による多くの加筆が認められたという。またそれ以外にも、当時の教部省員である田中頼庸落合直澄、久保季茲、物集高見常世長胤、中村秋香、猿渡容盛堀秀成等の参与も推察されている。
  3. ^ 教部省編纂『特選神名牒』磯部甲陽堂、1925年、276頁。
  4. ^ 三重県は遂に調査完了を見なかったという。
  5. ^ 災禍を免れたのは本書の第21巻(越後・佐渡)、22巻(丹後・丹波)、23巻(但馬・因幡・伯耆)、24巻(出雲 上)の4冊。

参考文献

外部リンク


特選神名牒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 19:33 UTC 版)

比奈多乃神社」の記事における「特選神名牒」の解説

明治時代になると、中央省庁一つである教部省においても古社研究進み、その成果は『特選神名牒』として刊行された。そのなかで延喜式神名帳の「比奈多乃神社」については「比奈多神社稱天馬駒神社」と表記したうえで、その所在地について落合村日向ケ谷(小笠郡土方村大字上土方村比奈多乃神社)」とはっきり記され明確に上土方落合比奈多乃神社比定している。その根拠として『神社覈録』を挙げており「土方鄕內日向谷と云處に寺あり鎭守の小社ありこれ歟」としている。そのうえで落合村なるは古老傳に式內比奈多神社の舊跡也」と述べており、落合村式内社置かれていたとする古老伝承根拠として挙げている。さらに、上土方落合比奈多乃神社祭祀担っていた華嚴院の寺記も根拠として挙げている。華嚴院享保年間の寺記の中に比奈多神社俗に天馬駒神社とも呼ばれる式内小社であり華嚴院創建時鎮守社であるとの記述見つかった。これらの根拠に基づき教部省の『特選神名牒』では、延喜式神名帳の「比奈多乃神社」を上土方落合比奈多乃神社比定している。なお、高天神社比定する説については、『特選神名牒』では「城東郡嶺村高天神社とすこは神社覈錄に因るにこの山の麓に日向谷と云山里あるを以てなり」と紹介したうえで「其さす所異なりと雖も何れも日向谷を證とするなれば大異同あるに非ず」と指摘している。 その後は、延喜式神名帳の「比奈多乃神社」の後裔は、一般に上土方落合比奈多乃神社とされている。たとえば、1936年昭和11年)に刊行された『靜岡縣史』においては延喜式神名帳の「比奈多乃神社」について「原所在小笠郡土方村土方日向ケ谷」と述べたうえで、その後裔については「現在社は同所比奈多乃神社」と説明しており、高天神社については全く言及していない。

※この「特選神名牒」の解説は、「比奈多乃神社」の解説の一部です。
「特選神名牒」を含む「比奈多乃神社」の記事については、「比奈多乃神社」の概要を参照ください。

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